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君に幸あれ 第7話 純粋

君に幸あれ  第7話  純粋
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「はて、どうしたものか……」
  向前は煙草を吸わないのに、喫煙所で深く溜息をついた。
  西川からの提案で、今月の残りは有給消化にあてて、その間に再就職を検討する事に。その為、今月いっぱいまで立てていた業務スケジュールは全て流れてしまい、やる気も覇気も削がれてしまった。
  西川から斡旋された再就職先は、どれも今より勤務時間も長く休みも少ない。なのに給与は今のおよそ七割。今の給与も決して高くはない。むしろ底辺に位置する金額。それを差し置いてのこの給与。世の中には色んな仕事があるものだと、改めて感心さえする程。
   「あ、あのう……すみません……」
  誰かの声がした。されどその声は彼の耳を右から左へと吹き抜けていく。
「あ、あのう!  むかえまえさん?」
「はっ!」
  気が付くと、目の前には見た事のない、若い女性が神妙そうな顔で立っていた。
「はっ、すみません!  ぼ、僕に御用ですか?」
「はい、むかえまえさんに、御用です」
「あ、はい、あ、えっとむかえまえではなく、むこうまえって読みます」
「あっ、ごめんなさい!  やだ!  ほんとにすみません」
   若い女性は本当に恥ずかしそうにはにかんで見せた。その表情に向前は一瞬、今の状況を忘れそうになった。。
   彼に向けられる皆の表情は、常に怒ってるか、見下したような、あるいは鬱陶しそうに眉間に皺を寄せたような顔ばかり。その荒野の中に現れた一輪の花は、見果てぬオアシスを彼に想起させた。



  奈央は一か八か、向前という男に声を掛けた。
  見るからに普通、無害、安全圏を絵に描いたような男。彼の周囲に漂う念もまた、人畜無害の浮遊霊か、起伏の少ない念ばかり。
   一日中、彼の動向を見ていたが、彼女が見る限りでは、この職場での人間関係はあまり芳しくはなさそうだ。実際に彼の表情は、暗くて堅い。低俗霊や怨念にとっては、まさにかっこうの餌食だ。しかしながら、抗菌ならぬ抗霊コートでもしているかのように、うっすらと白と黒の混濁した、穏やかな念が彼を取り囲んでいるだけで、その周囲は終始穏やか。時折怨念に近しい霊が通り過ぎるが、まるで彼に気づいていない、或いは距離を取りながら往来をしているかのよう。
   そのあまりもの不可解さに、遂に彼女は声を発したのであった。

「で、なんでしょうか?」
「あ、いえ、その……」
   声は掛けたはいいものの、何をどう聞くか、ノープランだった。次の言葉を探すが、咄嗟には丁度いい切り口は見つからなかった。
「私、こういう者なんですが……」
  嘘や口から出まかせを言ったところで、長くは続かない。ここは正攻法で。奈央は自分の名刺を差し出した。

「悪霊専門祓い、みなとつきみおうさん?」
「あ、いえ、みつき、みおです」
「あ、ごめんなさい。漢字苦手なもので……で、霊能力者さん?  が、僕なんかになんの御用でしょうか?」
「向前さんは、アイドルの沙藤エマさんのファンでいらっしゃいますよね?」
「え?  どうしてそれを?」
  向前は心底驚いた。霊能力者が急に現れ、そして自分がエマのファンであることを言い当てる。なんか見透かされてるようで、少しだけ背筋にヒヤリとしたものを覚えた。
「実は彼女の所属事務所から、ある依頼を受けておりまして」
  向前は奈央の言葉に、顔を曇らせた。
「エマっちに何かあったんですか?」
「安心してください。この件は終了してますし、何より彼女は無事です」
「よかったぁぁぁ……」
  エマの名前を持ち出した途端に、目まぐるしく変わる向前の表情。依頼を受けたというだけで、その表情は心配で曇天と化し、無事を聞いた途端に胸を撫で下ろし、涙ぐむ。それに合わせて彼を取り囲む念も真っ黒に堕ちたかと思うと、瞬く間に淀み無く白い念が混ざり合い、それを中和する。安堵した事により、ほのかに赤みを刺し、それは柔らかい念へと変貌を遂げる。
  その一喜一憂に奈央は、彼が『後ろ前太夫』であることを確信した。
「数日前、彼女の生誕祭が開催される予定でした。ですが、彼女は一部のファンの怨念に毒され、体調を崩していました。その為生誕祭は中止になり、その日は私がその悪霊を祓うことになりました」
「その悪霊ってもしかして……」
  向前は言葉に詰まった。
「えっと……その……もしかして……僕ですか?」
「え?」
   奈央は彼の発言の意味が、一瞬分からなかった。
「あ、いや、なんて言うか、僕がエマっちを好き過ぎて、生霊を飛ばしてしまったのかと……」
   向前は申し訳なさそうに眉根を落とす。
「いえいえ!  そんなそんな、その逆なんです。向前さんは救世主、ヒーローだったんです!」
「え?  僕がヒーロー?」
「そう!  あの日、使えなくなってた筈の生電話の電話が、何故かエマさん本人のスマホに繋がり、しかも勝手に通話状態になって、向前さんからのあのメッセージが流れたんです。」
「ええ!  なんか気恥しい……」
「私も聞かせて貰いましたけど、あんなふう思われたら羨ましいなって思いました」
「いやぁ、お恥ずかしいかぎりです」
「それで、そのメッセージがエマさんに取り憑いていた怨霊を消滅させたんです」
「え?  僕が?」
「そうです!  向前さんがエマさんを救ったんです!」
「僕がエマっちを助けた……」
  向前はその言葉の意味を、今一度深く噛み締めた。     言葉にする事で、身体の内側から熱い血潮が沸き立ち、疲れきっていた心を強く優しく鼓舞する。そして、一切合切の不都合を弾き飛ばし、向前自身を必要な人間として認め、それを自負する。もはやクビの話など些細なこと。己がこの世に生を受けたのは、エマを窮地から救うため。辛い事もたくさんあったけど、僕は大好きな人の役に立てた。
  その事実が、沈みかけていた彼を救い、そして更なるエマへの想いを強固にした。

   奈央は、そのめくるめく波動に、クスりと微笑んだ。単純だけどその分純粋。穢れなき少年のような中年の想いに少しだけ好感を覚えるのだった。



つづく

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