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「公園の池に投げ捨てられたランドセルとヘッセの春の嵐と失った僕の左耳」



 久しぶりに公園経由図書館行きの散歩。周りにベンチが等間隔で配置された公園の噴水に向かうと、あろうことか、黒いランドセルがひとつ、池に投げ込まれていた。黄色い帽子を被った三人の男子が公園の管理人らしき小柄の老人に叱られている。男子生徒たちは、それぞれランドセルを背負っていたので、池に投げ捨てられたランドセルの主は姿を消していた。

 いたずらなのかいじめなのか、よくわからないが、池にランドセルを投げ捨てるなんてちょっとやり過ぎじゃないかと思いつつ、僕は公園を出て図書館に向かった。

 静かすぎる空間は久しぶり。図書館に来た時は、自分が所有していない本を一冊選んでひたすら読む。今日はヘッセの「春の嵐」を選んだ。主人公は、女の子とソリに乗った時にひっくり返って、左足が不自由になる。若気の至りといえば、僕は学生時代に、原宿の小さなライブハウスに行ったおかげで、左耳の聴力を一生失うことになった苦い思い出をそこに重ねる。

 音楽の趣味も、生活も、恋愛も、身体の障害が小さな棘のように心を刺す。若者の微細な感情の変化を、美しい風景描写を駆使しながら描くヘッセの優しくデリケートな文体。

 あまりに静かすぎる空間のなか、左耳の耳鳴りがひときわ大きく響く。でも、誰しもが、若い頃、一生残る傷をひとつやふたつ負っているものではないかと思ったりする。それは、身体に負った傷だけを意味するのではない。もちろん心に負った傷も含めて。青春時代にもし何の傷も負わなかったとしたら、その後の人生はとても空疎で、奥行きのないものだったに違いない。

 「弱さや不自由さならともかく、苦しみを捨てようなぞとは思っていません。むしろぼくは、苦しみと喜びは同じ源から出て来るものであって、同じ力の働きであり、同じ音楽の拍子であるということを考えたいのです。そしてどちらも美しく必要だということを」

 ヘッセは主人公であるクーンにこう言わせている。苦しみと喜びは表裏一体で、苦しみがあるからこそ、喜びを感じる。

 ランドセルを池に投げ込まれた男子生徒のことを考えた。いたずらをされた方も、いたずらをした方も、今日の公園での出来事は、小さな傷となってまとわりつくに違いない。でも、大人になってから過去の記憶を掘り返してみた時、あの時の苦い思い出が、その後の人間形成において良い意味で影響を及ぼしたと回顧できるようになれば良いなあ、と思う。
 

 

 

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