1991年ソ連旅行(20)
4月11日から約3週間という、自分にとっては長期の留年旅行もこの日が最終日。飛行機で新潟まで移動しますが、そこから先、どうやって帰るか、まだルートは決めていません。
ハバロフスクから新潟までの飛行機は、今回の国際列車やソ連内の手配とともに旅行会社で予約しましたが、この便はノーマル価格のチケットしかないとのことです。ソ連がらみだとそうなるのかどうかはわかりませんが、7万円もしました。正直この価格は堪えました。しかしルートを変えない限り選択の余地はありません。ひどいぼったくりです。あと、当時は夏季限定で日本航空もこのルートの便がありました。
タクシーで空港へ移動します。国際線ターミナルは、昨日タシケントからの飛行機を降りたところで集められたところと同じです。こじんまりとしたターミナルは、早く着きすぎたのか人がいなくて静かです。国内線ターミナルへ散歩してみます。こちらはさすがに極東の中心地だからか、幾分建物がボロかったが大きくてそれなりににぎやかです。しばらくして国際線ターミナルに戻ると、幾分人が集まってきています。当然かもしれませんが日本人が多いです。その中にウルゲンチの空港にいた団体もみかけました。昨晩タシケントを飛び立って着いたのでしょう。ハバロフスク新潟線は月と金しか飛んでいないので、この団体のようなスケジュールはちょっとリスキーです。
やがて搭乗手続きが始まります。結局リコンファームしなかったが席はキャンセルされていませんでした。税関では係官がいろいろと英語で質問してきます。いわくイクラは持っているか。何が目的でそういうことを聞いてくるのでしょうか。もしかしたら国営商店以外で買ったものは取り締まり対象としているのかもしれません。ただこれがイクラではなくキャビアならわからないでもないですが。昨日街ではバッジを売っていた子供たちだけでなく、瓶入りのイクラを見せて売ろうとしていた大人もいましたが、欲しいとは思わなかったので相手にしませんでした。あと、ソ連ルーブルは持っているかとも訊かれました。余ったルーブルは事実上没収らしいですが、ないと言って財布の中を確認されるのもイヤなので、あるよ、どれだけ?、少しだけと答えたらそれきりでした。
狭い待合室にある商店にどんなものが売ってあったのか、記憶にないぐらいだから、きっとまともなものはなかったのでしょうが、それでも自分用として、それぞれグルジアとアゼルバイジャンというソ連の中の共和国産のコニャックという名のブランデーを買いました。ソ連のコニャックといったらアルメニアのが一番のブランドなのですが、それは売っていませんでした。
新潟行きの飛行機はツポレフ154。隣には日本人らしい男性が座っています。約2時間のフライトの最中に隣の男性が話しかけてきました。ソ連相手の貿易会社の社長とのことです。で、アナタはと訊かれて、学生です。ただの旅行者ですと答えたら、ソ連なんて(クソな)国に旅行に来るなんて並じゃない、素晴らしい、ウチで働かないかと言ってきました。まあリクルートは半ば冗談でしょうが、こちらはロシア語ができるわけではないし、たかだか3週間の旅行で日本に帰りたくなるぐらい根性がすわっていないので、適当な返事をするしかありませんでした。その社長からソ連人用の売り物のようなウォッカをもらいました。ただしよく見ると瓶の中の底になにか白いものが付着しています。実はくれたのではなく押し付けられただけなのかもしれません。家には持ち帰ったものの、結局飲まずに捨ててしまいました。この社長さん、話す時の表情があまり変わらないわりには割と話好きなのか、新潟空港が近くなると、もうすぐ大韓航空の飛行機とすれ違うとか、新潟空港は信濃川のすぐそばにあり、なんだか川に突っ込みそうな感じがして少々おっかないとか、いろいろな話をしてくれました。
新潟空港に着きました。さてここからそうやって家に帰るか。正直この旅行でお金を使い果たした感があり、実際この旅行はカード会社から借金して行ったので、これから当分の間なるべく倹約したいと思っています。だから飛行機で名古屋に行くというのは問題外。上越新幹線と東海道新幹線もやめておこう。高速バスなど当時はない。とすると在来線で行くしかない。急行列車で長野まで行き、そこから大阪行きの夜行急行で名古屋に行くというルートです。もちろん寝台などは使わないが、一応ゴールデンウイークなので指定席は確保しました。
新潟駅までは空港バスを利用。通路を挟んで反対側の席にロシア人と日本人二人組が座っています。ずっとたどたどしい英語で話していますが、どうやら仕事がらみでの来日のようです。しかしながら空港からバスで移動というところがこのロシア人の微妙な立ち位置を現しています。どちらかというと初老のロシア人は、何か祈るような真剣な表情で同行の日本人に対して「I believe you.」と訴えているのが聞こえました。どうやら本音では信頼できないらしいようです。言われた日本人はただニコニコとしているだけ。飛行機のなかで会ったあの社長もそうかもしれませんが、社会体制の違いすぎる国での事業は並大抵のことではなく、現地人に一杯食らわされてさんざん苦労した挙句失敗ということも珍しくありません。その逆パターンになるのかなと、その二人を見て思いました。
新潟から長野行きの急行に乗ります。車両は若干くたびれた感じがし、速くはありませんが、普通車なのに座席がグリーン車仕様でなかなかよかったです。長野には夜遅くに到着。名古屋行の夜行急行の出発まで待ち時間がそれなりにあります。駅前にラーメン屋台がありましたが、値段を聞くと一杯千円とのこと。新幹線代をけちった人間に払える値段ではありません。名古屋行きの夜行列車の座席は、なんと向かい合わせのボックスシート。昭和の時代ならともかく、いまどき急行料金をとるくせに座席がリクライニングしないとはどういうことか。しかも指定席はそれなりに売れているらしく、ボックスに空きはない。だから寝転がることもできない。これは失敗でした。今回の旅行で乗った中国の硬座よりはましですが、結局ろくに眠れないまま列車はゆっくりと木曽路を進みます。それでも名古屋には早朝5時前に到着。ここから豊橋行きの名鉄の始発列車は約1時間待ち。これは結構つらかった。7時頃、本当にへろへろになって帰宅しました。
旅行を終えて、今回のソ連旅行の手配の依頼をした旅行会社へ、帰国の報告をしたら「無事でしたか」とのこと。私はそんなに危険で困難な旅行をしてきたのだろうか。完。