2015年エカテリンブルク+カザン+イスタンブール旅行(2)
飛行機がエカテリンブルクに着陸する前ぐらいから徐々に夜が明けつつある。去年も同じぐらいの時刻だったし、前日からほぼ眠っていないという点も同じだ。ただし国内線の飛行機なので入国審査でいじめられることはない。それはもうモスクワで済んでいる。
空港を出る頃にはすっかり明るくなっていた。眠いので適当にタクシーをつかまえる。行き先として予約してあるホテルを示すと900ルーブルとのこと。実はこの時まだ為替レートが頭に入っていなくて、ちょっと高くないかと思ったが、よく考えると全然悪くない。声をかけたタクシーにもう一度声をかけて載せてもらうことにした。
1年ぶりのエカテリンブルク。今どこを走っているのかを想像しながら外を眺める。ところが最後の詰めというか、運転手はホテルのあるところがよくわからないらしい。一度どこかのホテルの前に着いたが、どうもここではないのかうろうろしだす。しかしながらやっぱりよくわからないらしく、ホテルに電話しながら場所を確認。そしてようやく到着したところは最初に停まったホテルの前。私が渡した紙に書いてある住所か地図が少し違っているらしいが、ともかく着いた。
事前にホテル手配の旅行会社に、到着が遅くなるからキャンセルされないように連絡してもらったからか、問題なくチェックインできた。ようやく眠ることができる。といってもエカテリンブルクへはホテルに泊まりに来たのではない。郊外の見どころに行くためにはいつまでも眠っていられない。遅くても11時には起きるようアラームをセットして就寝。
午前10時頃目が覚める。もう少し眠っていた方が疲れが取れるのではないかとも思ったが、エカテリンブルクに滞在できる時間はそれほど多くない。11時頃にホテルをチェックアウト。
今回のミッションは、郊外のアジアヨーロッパ境界オベリスク2カ所と、ガーニナ・ヤーマГанина Ямаというニコライ2世の遺体が捨てられたところに行く、というもの。おそらく公共交通機関はほぼないと思われるし、効率的に回りたいので、ホテルの前にタクシーが停まっていればその場でチャーターしようと企んでいたが、金曜日の終電後の鉄道の駅前と同じでそんな時に限っていないものである。流しのタクシーを捕まえることは期待できそうにない。もっとも路上で手を挙げれば簡単に白タクが捕まるかもしれないが、それはできれば避けたいと思い、客待ちタクシーがいそうなホテルハヤットまで行ってみることにする。
泊まったホテルはほぼ街の中心部にあるので、歩いて移動する。途中シベリア風の木造建築物が目に入る。観光スポットっぽいが、言葉がわからないのでとりあえず写真だけ撮る。
ほどなくハヤットに到着。ところがなんだか建物が工事中のようで、営業しているのかどうかよくかわからないが、タクシーがいない。あてがはずれた。道路の反対側には、1年前やはり工事中だったエリツィン記念館があるが、案の定まだ工事中だ。エリツィン用の兵馬俑でも作っているのだろうか。完成していればここも重要な観光だったのだが、これは想定の範囲内。
どうしたものかと池の辺りを歩いているとタクシー塗装の車が停まっているのを発見。これはタクシーかと若い運転手に尋ねるとそうだとのこと。このお兄さん、自分と同じくらい片言だが英語を話せる。二つのオベリスクとガーニナ・ヤーマの写真を見せてここへ行きたいと伝えると、4時間はかかるがいいかとのこと。全然大丈夫。チャーター代は、ちょっと気前が良すぎたのでここでは明かさない。言葉が通じない人に自分の意思を伝えるために写真を用意したが、当然のことだが英語ができる人なので簡単に意思の疎通ができた。これでミッションを達成できそうだ。
運転手とは初めは、エリツィンは好きかとか、ロシアはどうかとかたわいもない会話をしていたが、自分はどちらかというと無口な人間なので、英語で無理無理会話するのも疲れるから、ほどほどにしておく。
大都市エカテリンブルクも、ちょっと走るとすぐに森の中の街道といった風景となる。
タクシーが停まる。ここなのかと思いタクシーを降りて外を歩いてみたが、オベリスクは見当たらない。どうやら戦没者に関する施設のようだ。運転手もここではないと思ったのだろう、周りの人たちに訊いていた。よく知らずに走っていたのか。まあいいだろう、これで確実に目的地に到着するであろう。
そこからしばらく走ると、オベリスクが見えてきた。ついに到着だ。ただし予想はしていたが、ただ街道沿いに無造作に設置されているだけで、オベリスクの周りにアジアとヨーロッパとの境となるようなものは一切ない。だけどそんなものだろう。
駐車場にはお土産屋があり、そこからオベリスク向かう途中になぜか日本でもたまに目にする「世界人類が平和でありますように」が立っている。これだけがポツンと立っているという光景がなんだかシュールだ。
運転手から「オマエはこんなものを見にわざわざ日本から来たのか?」的なことを言われやしないかと思っていたが、彼はそんな表情も見せず、記念写真を撮ってあげようかと言ってくれる。自分は己自身の写真を見るのは嫌いなのだが、ここは素直にご好意を受ける。そしてもう一か所のところにも行くのかと訊かれたので、もちろんと答える。
もう一か所のアジアヨーロッパ境界のオベリスクは、最初のところからそれほど遠くないところにあった。誰かと一緒に来ればそれなりに盛り上がったかもしれないが、果たして滞在時間は3分もあっただろうか。それしかないのだから仕方がない。
気を取り直して、次の訪問地へ。
ロシア革命でロマノフ王朝が倒れ、最後の皇帝ニコライ2世はエカテリンブルクで処刑されたのだが、その後亡骸や家財道具やらがここ「ガーニナ・ヤーマ」で捨てられたとのこと。今はたくさんの教会が建っていて、ちょっとした信仰の場になっているようだ。ニコライはロシアの犠牲者であるとともに殉教者という見方もあるらしい。
ガーニナ・ヤーマ内の売店の2階に博物館らしきところがある。
ニコライ2世ほど日本に縁のあったロシア皇帝はいない。皇太子時代に、シベリア鉄道起工式に向かう途中に日本に立ち寄り、各地で熱烈な歓迎を受けたが、大津で警備側のはずの巡査に突然切りかかられ大けがするという、いわゆる大津事件がおきた。これ以来ニコライは日本人を「マカーキ(猿)」と呼ぶようになったらしい。ちなみにニコライが来日する際、西南戦争で亡くなったはずの西郷隆盛が同行してくるという噂が流れたとのこと。またロシアの南下政策は当時の日本にとって現実的な脅威で、いわばただでさえ示威行為と感じていたのを、あの事件である。ニコライにとっても日本にとっても悪夢のような出来事である。この話は、吉村昭著「ニコライ遭難」を参照。
そしてその脅威が現実のものとなり勃発したのが日露戦争であるが、その時の皇帝がニコライである。ところが戦局はおもわしくなく、ロシア第一革命により戦争継続が困難となり、結局事実上の敗戦国として講和せねばならなかった。そしてロシアはやがて3月革命そして11月革命により帝政は倒れニコライとその一家は命を落とすことになった。
感傷的なことをいえば「ちょっと可哀想な人」と思えないこともない。
エカテリンブルクでのミッションをすべて終え、市内に戻る。駅で降ろしてもらい、運転手と握手して別れる。
エカテリンブルク駅の正面玄関の上の方をよく見てみると、ВОКЗАЛ(ヴァクザール、駅)の表示の下に、やはりロシア語で真ん中にエカテリンブルク、そして左側にヨーロッパ、右側にアジアという文字が彫られている。
電光掲示板の、下から二つ目の139列車が、自分がこれから乗る列車だ。ノヴォシビルスク発アドレル行き。アドレルとはソチの東にある、グルジア(ジョージア)内のアブハジア自治共和国の手前の街。最近はアブハジア紛争も落ち着いてきたのかどうか知らないが、リゾート地ソチ方面とはいえ、随分物騒ところへ行くものだ。
今日は何も食べていないので、駅前で腹ごしらえ。いろいろ物色していると、シャシリク(串焼き肉)を見つけた。こいつをくれというと、建物の中で注文しろとのこと。中に入るといろいろな料理があるが、その中で中央アジア風のピラフを見つけた。去年の夏の中央アジア旅行では、夏バテしてしまったのか、あまり現地の料理を食べれなかったので、迷わずこれも注文。エカテリンブルクで中央アジア料理を食べられるとは思わなかった。
列車の出発までまだ時間があるので、もう少し市内を散歩。
駅から南に進むと見えてくるのは「血の上の聖堂」。去年も来た所で、ここでニコライ2世とその家族は殺害されたとのこと。ただ、当時の建物「イパチェフ館」は、モスクワの命令を受けたエリツィン(当時はスヴェルドロフスク州共産党第一書記)によって取り壊され、2003年になって跡地に今の教会が建てられた。
今回は中に入ることができた。正直美しいなとは思うが、ガーニナ・マーヤにあった教会と同じようなものだ。ただ皇帝の殺害場所であるここに教会があることが大事なのだなとも思う。
まだ時間があるので、街歩きを継続。
レーニン大通りから貯水池を眺める。本当に歩いていて気持ちがいい気候だが、去年もほぼ同じ時期に来たのに、その時は冬そのものだった。たくさんの人たちが歩いている。
市庁舎の前を通って、道路の反対側の同志レーニン像を眺める。そしてヴァイニェル通りをふらふら歩いて、地下鉄の1905年広場駅から地下鉄に乗ってエカテリンブルク駅に戻る。
これでエカテリンブルクですべきことはすべてやり遂げた。エリツィン記念館はもういい。たぶんあれはプー現大統領が健在なうちは完成しないだろう。
駅に戻り、自分が乗る列車を待つ。
西側の入口から1番ホームに入った。よそのホームに行く通路が見当たらないので、ここで待っていればいいのかと思い、売店で何か買おうか物色したりしていた。1番線には既に別の列車が停まっている。ところが到着時間になってもこの列車が動き出す兆しがない。おかしいなと思いつつそのままホームで待っていたが、やっぱりここで待っていてはいけないのではないかと思いつき、一旦駅を出て今度は中央玄関から駅舎に入ると掲示板があり、自分の乗る列車は4,5番線とのこと。そしてその先には地下通路があった。ロシアの駅はヨーロッパ式というか、改札がない。人ごみのなかった西側の入口から入ったのが間違いだった。そして地下通路を通ってホームに上がると列車は既に到着していた。ホームの売店で水を買って列車に乗り込む。
今回、列車の予約は旅行会社を通じて手配した。旅行会社からはバウチャーという形で書類が送られてきた。いわば予約済証というか、飛行機でいうEチケットのようなもので、切符はない。実際車掌は自分のパスポートとエカテリンブルクから乗ってくる乗客リストを照合していたが、自分のバウチャーは特に必要ないようだった。РЖД(ロシア鉄道)、なかなか進んでいる。
コンパートメントには先客がいた。ロシア人っぽい母子(だと思う)二人。この車両は、4人用コンパートメントが9つの36人乗りで、シベリア鉄道とかに乗るために日本で予約すると、大抵このタイプの車両となる。クペーと呼ばれるいわば2等寝台。これより安いプラツカルトと呼ばれる3等寝台もあり、2年前の中国カザフスタン国際列車置き去り事件の時に乗った後続列車の寝台がそれだったが、正直二度と乗りたくない。
列車は定刻に出発。しばらくすると、シベリア鉄道だとウラル山脈を越える際に見えるアジアヨーロッパの境界オベリスクがあるのだが、どうやらこの列車はエカテリンブルクからはいわゆるシベリア鉄道線から南に分岐する路線を走るので、あるかどうかわからないオベリスクを探す気力が湧かず、早々に昼寝。ロシア鉄道では、支給されるシーツを、各自でコンパートメント内に備え付けられている布団や枕に被せてベッドメーキングをしなければならないが、それをしないまま眠ってしまい、結局そのまま本格的に眠ってしまった。ベッドがビニール張りで若干硬く、途中何度も寝返りをしたくて目を覚ましたが、結局今さらベッドメーキングするのが面倒くさくて、また中のエアコンがちょうどよい加減で暑くも寒くもなかったので、そのまま一晩を過ごした。
カザンには翌日早朝の到着。