1995年トルファン旅行
またまた新疆にやってきた。前日は上海から名機イリューシン86に乗ってウルムチにやってきたのは昨年と同じだが、今回は北京経由の便。ウルムチに着いたのはもう午前。疲れた。
次の日はトルファンへ移動。当時は高速道路など開通しておらず、というか高速に走れるバス自体が存在してなかった。トルファン行きのバスは、日本人の感覚ではとんでもなくおんぼろであったが、問題なのはこんなことではない。とある乗客が車内に自転車を持ち込んできた。当時の中国人はこの手の無茶が大の得意で、他の乗客は何も文句を言わない。かと思えば、車内にトラックが使うぐらいの大きさのタイヤを持ち込んだら車掌が文句を言ってきた。この手の無茶の基準(つまり、どこまでがセーフか、ということ)がいつまでたってもわからない。
中国のバスはジャンプする。ただしジャンプするのは乗客の方である。サスペンションがないのか、バスのタイヤが道路の穴の上をウサイン・ボルトにわずかに及ばないぐらいのハイスピードで走り抜けると、乗客は一斉にジャンプする。それでもバスの前方の乗客はまだ良い方で、後部の座席に座っていると、二十センチ程一瞬宙に浮いたかと思うと、そのまま二十センチ下の座席に叩きつけられる。トラベルライターの下川裕治氏の表現を借りると、中国のバスを表す表現に次のようなものがある。いわく、前の席との間隔が窮屈で足を入れられない程「狭く」、一日乗っていると骨折者が出る程「揺れ」、坂道になると歩いている人にも抜かれてしまう程「遅く」、おまけにしばしば故障で「止まる」という四重苦である。トルファン行きのバスは横五列の席で確かに「狭か」ったし、道路のせいもあってよく「揺れ」たが、しかし一度も故障しないで終点まで走り切った優秀なバスであった。すべてはアッラーの思し召しである。
トルファンへの道程は、その短い距離のわりにはと変化に富んでいる。ウルムチの街を出て二時間程は森林と草原の道を走り、一時間程で天山山脈のはしっこの谷間の道を進み、一時間程トルファン盆地の砂漠の道を突き進んでバスはトルファンに到着する。ステップと砂漠両方の風景を見ることができ、途中風力発電所らしき風車の集団が現れ、単調がちながらもそこそこに変化に富んだ景気が展開される。実は中国はエコロジーな国なのである、たぶん。しかしながら京都議定書ならぬ北京議定書というものがあったとしたら(義和団事変後に調印されたそれのことではない。念のため)、とても地球に厳しい内容であろうという印象しかもてないだろう。
トルファンに到着してほどなく現地人の知り合いと合流。バスターミナルに到着すれば、そこで屯している誰かが私の到着を知り合いに伝えてくれる。VIP扱いと言えないこともないが、トルファンでの隠密行動は不可能だ。
トルファンは概ね見どころをまわったが、カモネギでもある自分に放置プレイをしてくれるはずもなく、知り合いは砂漠を見に行かないかともちかけた。そこは後で地図で確認するとトルファンの東にあるピチャン(鄯善)の村(正確には県)であった。正直砂漠なんかどうでもいいと思ったが、ヒマなのと、現地人と一緒に行動するのも面白そうなので行くことにした。
ピチャンはトルファンより東へ二時間くらいの所にある小さな村である。途中まで高昌故城のある村の方に進んでいき、さらに進むと道が悪路になる。ややパワー不足のワゴンはのろのろと進んでいく。しかし、オアシスからオアシスに進んでいく時の光景、特にだんだんと緑が近づいてくる景色が美しいし、途中の村で見かける子供たちの好奇の目も楽しい。漢民族の姿は全く見かけずウイグル人だけの世界だ。
やがて砂丘につく。想像したとおりの光景である。砂丘に登ってみる。全く砂だけなので、本当に歩きにくい。とりあえず頂上らしきところを目指したが、足が埋まってしまう。埋まるだけならまだ良くて、砂はとんでもない熱砂となっていて、じっとしていることができない。では日陰の部分を歩いていこうとすると、いつのまにか谷底を歩いており、どこを歩けば良いのかわからなくなる。
ようやく一つ山を越えたらさらに高い山があった。その山の向こう側がどうなっているのか、どんな景色が見えるのかとても興味があったが、そこに日陰はなく、入ったらとんでもない苦しみを味わうことになりそうなので、ここら辺で進むのをあきらめる。
ピチャンの砂漠は意外と良かった。ただし持っていた使い捨てカメラ「伝染ルンです、じゃなかった、写ルンです」の中に砂が入ったためなのか、トルファンに帰ったらシャッターが作動しない。中国ではそんなブツ売っていない。これにはがっかりした。アッラーは無慈悲でもある。
帰路はウルムチから上海、そして1泊後に大阪というスケジュール。
ウルムチ9時5分発であるが、これは北京時間。ホテルチェックアウトは6時だが政府非公認ではあるが現地にて存在する新疆時間では午前4時。レセプションの女性を恐る恐る起こしてチェックアウト手続きをする。文句があったら中国新疆航空に言ってほしい。外はまだ真っ暗。
約4時間で上海虹橋に着陸。当時はまだ浦東空港はないので、国際線も虹橋空港発着。そこで突然頭に浮かんだのは、昨年みたいに上海の街に行くのは面倒くさいので、もし今日の便があればもう帰ろうというもの。うん、我ながらいい考えだと思い、国内線ターミナルの隣にある国際線ターミナルへ移動。そして出発の時刻表を見たら、なんと!JLが飛ぶ前にNHがあるではないか。私のチケットは正規航空券、いわゆるノーマルチケット。航空会社の変更もOKである。
全日空のカウンターでチケットを提示すると、係員は一瞬動きが停まったが「ノーマルチケットなので乗れますよね」と告げたら何の問題もなくチェックインできた。これが初の全日空搭乗だ。
全日空のCAは言葉使いや動き方が若々しくてとても印象が良かった。そして社会復帰日は15日であるが、予定より1日早く帰ることで、明日14日は家で完全休養日とすることができ大満足だった。ところが…。
家に帰った翌日、40度以上の高熱が出た。一体何の病気なのか心当たりがない。いや、新疆に行ってきたこと自体が原因かもしれないが。もし隔離されるような危ない伝染病だったら大騒ぎになってしまう、だけども病院に行かないわけにはいかない、とはいってもお盆休み中の14日に開いている病院なんて市民病院しかない。仕方がない、そこに行くしかない。外に出たら夏真っ盛りというのにものすごく悪寒がして、トレーナーを着こんでも震えが止まらない。当然病院の内科はとても混んでいて、ますます調子が悪くなりそう。
結局診断をうけたものの、菌の類は発見されなかったので「急性腸炎」というよくわからない病名をいただいた。しかしながら1日早く帰ってきて本当に良かった。上海で発病していたら絶対に帰ってこれなかった。もしかしたら異国の土になっていたかも。それか、全日空の機内食があたった??