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1991年ソ連旅行(18)

 結局、ヒヴァ観光を終えた翌日は何もしませんでした。ホテル内にある売店らしきところでパンを買った時以外はずっと部屋に引きこもっていました。今から思うと少々不思議ですが、なぜあたりを散歩するぐらいのことをしなかったのでしょうか。格別に疲れていたわけでもなし、ずっと昼寝していたわけでもなし。よく時間をつぶせたものです。もっともウルゲンチの街は特に見どころはないらしいです。とはいっても実際に出かけてみなければ見どころがないことさえもわかりません。ちょっともったいなかったです。

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 引きこもりを終えた5月1日の朝、ホテルを出たらなんだか若干お祭りらしい雰囲気が漂っていました。なんだろうと約3秒間考えたが、そうか、今日はメーデーです。一応労働者の国とのことらしいソ連では、メーデーはハレの日なのでしょう。
 ホテルをチェックアウトして空港に着いて、タシケント行きの飛行機に乗るために外国人用窓口に出向いたら、そこの係員が「あれ、アンタ今日の便だったっけ?」などとおかしなことを言います。「だけどまあダイジョーブ」とも。おいおい、一体私のスケジュールは当局にどのように伝わっているのか。まあ飛行機に乗れるんだったらいいけど。
 空港内で時間をつぶしていると、珍しく日本人の団体客がいました。彼らはこれからヒヴァ観光に行くようです。折角なのでそのうちの一人に声をかけました。自分としては軽い会話をするつもりだったのですが、相手が「一人なんですか。大丈夫でしたか」なんて聞いてきたら自分の何かの心のスイッチが入ってしまったようで、よせばいいのにこれまでのトラブルを延々と話し始めてしまいました。話し終わって初めて「あー、変なヤツと思われちまったなー」ということに気が付きました。
 タシケント行きの飛行機はツポレフ154ですが、自分は外国人だからなのか、自分一人だけ中央から後ろ部分の席。こういうのをVIP待遇というのでしょうか。飛行機がタシケント空港に着陸し、ブレーキがかかると、慣性の法則で人が座っていない座席の背もたれが一斉に前に倒れました。後ろの方でバタバタと大きい音がするので誰もが、といっても自分しかいませんが振り返る。まるでドミノ倒しだ。ソ連の飛行機あるあるです。
 またタシケント空港の外国人待合室で長時間の軟禁、もとい、待機。ところが今回は、空港ゲートのすぐ外側で現地人が屋台のようなものをこしらえてケバブらしきものを焼いています。あまりにヒマなのと、ソ連ではなにかと食い物に不自由していて、こういう店が珍しかったので、食べてみたいとは思ったものの、ゲートを出ていいのか悩みましたが、ゲートがそのうち空いたままになったので、ゲートを出て何本か買いました。食べてみたそれはやはり中央アジア料理のソ連化とでもいうのか、残念なものでした。食材、特に肉がなかなか流通しないためなのか、肉の不足分を玉ねぎでカバーするためにつくねにしたのかもしれませんが、玉ねぎの比率が大きすぎます。味付けも特になく、ただあぶっただけ。その時は中央アジア料理ってこんなものかと思ってしまいましたが、新疆やソ連崩壊後の西トルキスタンが示すように、もちろんそんなわけがなく、としたらこれはやはりソ連のせいなのでしょう。これがソ連だ!Это Советский Союз!

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 この日はこの後夜行便で一気にハバロフスクまで飛びます。今ではなかなか想像できませんが、ソ連当時のハバロフスクは、ウラジオストクが重要な軍港があるからか閉鎖都市で、ソ連人でさえ許可なしには入れないのに対し、極東の対外的な玄関口として重要なポジションにあったようで、ソ連各地からも航空便があり、地球の歩き方ソ連編によるとタシケントからは週4便あるとのこと。
 搭乗時なぜか韓国人らしき顔つきの男が数人現れて、外国人である自分と同じように搭乗手続きを行いました。雰囲気としては着ている服が韓国人ではなく、北朝鮮人かソ連の朝鮮族のような感じでしたが、どうなんでしょう。
 ハバロフスク行きは多分イリューシン62。中はほぼ満席。飛行機が動き出した後、タシケント空港は大きい空港なのか、滑走路に出るまでたくさんの飛行機が見えました。今では想像もできません。そして飛行機はソ連の飛行機特有の甲高い音を上げながら飛び立ちました。

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