1991年ソ連旅行(19)
タシケントからハバロフスクまで飛行機で移動ときくと、なぜ中央アジアからわざわざ極東へ行くのか疑問に思うかもしれませんが、ソ連当時は国際線がある空港は限られていて、ハバロフスクは数少ないそれでした。ソ連人にとってはソ連が世界のすべてといってもあまり大げさではありません。ソ連の外側、いわゆる西側は打倒すべきブルジョアが支配するあってはならないアナザーワールドであり、労働者が搾取されている地獄であり、触れてはいけないタブー、そして実はモノがあふれるうらやましい天国でもあります。ちょっと話がそれましたが、外とのゲートなど人の出入りが監視できるモスクワだけで十分なのですが、なにもモスクワまで行かなくとも、細々とではあるがハバロフスクにもゲートがあるわけです。そこが今回の自分にとってもソ連旅行の出口となります。
日本の長距離国際路線並みに長時間のフライトなので、ソ連国内線とはいえそれなりに食事も出てきます。正直なところ今まで機内食がうまいと思ったことはあまりありません。ただ機内食などこんなものだと期待しなければ別に腹も立ちません。この時のメシの味はどうだったかはもう記憶にありませんが、鶏肉がやたら硬かったことだけは覚えています。食器がプラスチックなので切れなかっただけのような気がしないでもありませんが。仕方ないので手づかみで食べました。こんな食器では杏仁豆腐しか切れません。
翌朝、飛行機はハバロフスクに着陸しました。5月初旬のハバロフスクは、イルクーツクほどではありませんが、まだ日本の春の手前のような雰囲気で寒かったです。飛行機を降りると外国人は外国人用のターミナルに集められました。この時の係員の中年女性の中に、ごく普通に日本語を話す人がいました。さすが極東ともなると違うなと感心しましたが、その人が特別に私に何かをしてくれるわけではありませんでした。しばらくそこで待たされた後に、ホテルへタクシーで移動しました。
ホテルで数時間眠りました。翌日は帰国なので、この日が観光の最終日です。ハバロフスクは単なる日本へのゲートかもしれませんが、ハバロフスクという街自体に関心がないわけではありません。とはいうものの、いざ街に出てみると見どころはほとんどありませんでした。ホテルのすぐそばにアムール川が流れていて、もちろん大河なのですが、この時期のアムール川は単なる川という感想しか出てきません。それでもそこら辺りをうろうろしていると、地元のガキども、じゃなくて子供たちがなにやら話しかけてきます。なんだろう、鬱陶しいなと思いつつ顔を向けると、どうやらバッジを買ってほしいようです。子供たちの小遣い稼ぎなのか。今どきのソ連では子供のプチ資本主義的経済行為は大目に見られているのか。でもあんまり欲しいとは思わないなあと思いつつも適当に選んで買いました。しばらくすると別の子供がやはり同じ目的で声をかけてきます。これ以上は構ってられないと思い、ホテルに戻りました。
このあと何をしていたのか思い出せませんが、たぶん昼寝でもしていたのでしょう。そのせいか、夜になっても眠くなりません。しかしながら食事をとっていないので腹は減ってきました。腹が減ると余計眠れません。我慢できそうにないので、ホテルのレセプションでどこか食事できるところはないか尋ねたら、1階のレストランに行けとのことです。そこに行くとなにやら騒々しい。生バンドが野暮ったい曲を演奏するなか、ソ連人が大勢踊ったりしています。こんなものに人が集まるなんて、よほどソ連には娯楽というものがないらしい。こんなところで落ち着いて食事などできるかと思いましたが、テーブルの上にはザクースカと言われるいわゆる前菜モノが並んでありました。私が誰かと一緒に来たのならそれなりに楽しめたかもしれませんが、あまりに勝手がわからず、居心地が悪かったので、適当につまんで食事を終らせました。お会計をしてもらおうと、そばにいた係のおばさんにソ連のお札を出したら、ロシア語でなにかわーわー言ってきます。何だろうと想像してみたがわかりません。するとおばさんは一旦どこかに行った後、何かを持って帰ってきました。手にはUSドル。つまり外貨しか受け付けないということです。中央アジアのホテルのレストランでは、事前の情報と違い、ソ連ルーブルで支払うことができましたが、ここはダメでした。日本円でいいかと確認をとり、一旦部屋に戻って札を取り出した。結局約千円払いました。約1週間半前にソ連に入国し、イルクーツクで2千円両替しましたが、半分ちかく余ってしまいました。なのにここで、このタイミングで余ったルーブルと同じくらいの外貨を支払わされました。これもソ連崩壊前の一現象かもしれませんが、私にとっては単なる皮肉でしかありません。