
耕運機でドライブ!
いつのころだったか、耕運機の荷台に乗せられてみんなでドライブに行ったことがあった。農産物代わりに人間を載せるのは合法だったかどうか……。耕運機の運転手は父のお兄さん、つまり伯父さん。その家に私たち家族は夏休みで遊びに来ていた。父もいたんだろうか。田んぼの仕事を邪魔したり、へびのはい回る伯父の田圃へ降りて行ったり、いろんなことがあった夏のある日のことだった。お盆前だったのか。私としては、小学校の低学年のころだったろう。ドライブに行くことになった。
伯父の家は、母の帰省先でもあったので、この伯父さんは母の親なのかもしれないと思っていたころ。その話をしていて、うまくかみ合わないこともあったので、この人は私の祖父ではないのかと疑問をぶつけてみて、私はお前の祖父でないと宣言された時の伯父さんは、ガラッと目の前から遠くへ行ってしまうような、子どもなりのショックを受けたと思うが、それもほんの少し懐かしい。
伯父は、父の兄であった。ということは、父はこの伯父の家から出た人なのかというと、そうではなくて、長男であるにも関わらず、家を出て養子に出て行った人だった。何しろ伯父の父親、うちの父の父という人(私の祖父にあたる人)は、大酒呑みだったということだった。福岡の方で炭鉱の仕事をしていた伯父が、その月ごとか、週ごとか、給料の支給される日、伯父の給料をまるごともらい、そのまま家に帰り、またお酒を飲んでしまったというとんでもなさだった。そんなマンガのような、甲斐性なしの酒飲みがかつてのこの国にはいたということなのか。祖父だけではなくて。私は祖父の伝説を聞くたびに、あきれると同時に何か理由でもあったんではないかと少しずつ思うようになっていった。
かくして、祖父の田畑はみなお酒に変わり、自分の家だけが最後の資産となっていた。祖母はもうこの世になく、祖父は娘・息子たちにたかることだけが生きる道になっていた。この酒飲みの祖父と一緒にいたこともあったはずだが、私に記憶はない。気づいたら、伝説の人として存在していた。お位牌は父が持っていたんだろうか。そのあたりの記憶もなく、今は実家におまつりされてはいる。
それよりも、耕運機のドライブだった。荷台には女こども。とことこと刻みながら耕運機はテンポよく進み、歩きよりは速く道を進んでいく。知らない集落をいくつか過ぎて、私たち遠くの山の展望台まで来ていた。景色は一切覚えておらず、それよりも沿道の人たちが何かと声をかけてくれたのが印象的だった。「あら、よかもんやよぉ」とか、「どこまで行くのお」とか、「にぎやかでいいねえ」とか、声をかけられたと思う。たぶん、当時としても、こんなドライブを見かけることはめったになく、ついつい出会った人たちも気軽に声をかけたくなったのだろう。それくらいに、乗客はお祭り気分をふりまいていただろうか。
私たちは、マラソンランナーのように、沿道の人々に声をかけられ、照れくささなどまるでなく、高揚した気持ちでいられた。帰ってきたら、疲れて寝る、何だか単純ですなおな一日だったんだろう。