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自分理念を持ち日本の農業に貢献すると人類に誓う

私は「農業を誰もが憧れや尊敬を抱く産業に変えたい」という思いから起業しました。インターネット上にて農業、漁業、畜産業、製茶業、養蜂業などを営む生産者の方々と、地産地消だけではなく広く全国の消費者に生産者の思いや考えを伝え、求める人に求められるものを循環可能な適正な条件にて提供する仕組み作りを始めました。日本の農業は、高齢化による担い手不足や耕作放棄地の拡大など、取り巻く環境は厳しさを増しています。

「農業を通じて人と人とのご縁を繫ぐ」ことが、地域社会の活性化に最も必要なことだと考えています。そして、私たち自身が住む日本という島国で、食料自給率100%が当たり前に感じられる時、人と人との繋がりの温かみや心からの安心と自身を持って、生まれ育ったそれぞれの故郷に誇りを持てる事を願います。

故郷の村櫛で兄弟と浜名湖に育てられる 

私は浜名湖と山に囲まれた自然豊かな環境で兄と弟に挟まれた3人兄弟の次男として育てられました。幼い頃は、目に見えるもの全てが遊び道具や遊具に思えました。虫や生き物が大好きで、干からびそうなオタマジャクシに水を運んだり、焼きそばを餌にハゼ釣りをしたり、ザリガニは巣穴に素手で突っ込んで手づかみで捕まえました。

中学生の頃は、台風で打ち壊された廃船を見つけると仲間とそれを手直しして、皆で浜名湖の真ん中まで漕いでいき、来たのは良いが岸に戻れなくなり大騒ぎになったということもありました。

通学途中で山道に自生する渋柿を収穫し、授業中にカッターナイフで皮を剥き、紐で吊るして干し柿を作っていました。木があれば登り、食べれそうなものは全て食べ、雨水は飲み、水があれば泳ぐ。猿のような幼少期を過ごしました。そして、共にこの経験をした兄弟や幼馴染は私の宝物です。

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高校生活からの葛藤
決断単身でアメリカへ

私は幼少期から両親と兄の影響で格闘技を習い、中学・高校では柔道に明け暮れました。学校の授業での評価は悪く、高校生活は柔道をしなければ学校にはいられないような生徒でした。高校2年で無理なトレーニングに体はついてこられず、肩を壊しながら無理やり柔道を続ける毎日に将来の夢や未来への希望は持てませんでした。進路指導の先生からも見放されるような生徒でした。人に何か決めつけられると反発する性格で、決めつけられる進学や就職では無い将来について想像を巡らせ、海外へ行きたいと思い始めました。両親を説得し、高校卒業後2003年(平成15年)にアメリカに渡りました。

 「生かされてる」と気付く 
 10代最後のアメリカ冒険旅行 

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留学から約1年経ち、あまり英語も上達しなかった自分は、自らを変えたいと思い、「in my last teens(最後の10代の年)」に何か自分の人生に残せる事をしたいと、単身でアメリカ縦断を自転車で渡りました。シカゴから直線距離で約2000キロ離れているテキサス州ダラスへと向かいました。単独でキャンプ場を渡り歩き、17日間漕ぎ続けてダラスに入りました。

この17日間は、たった1人で、ただひたすら前だけを向き、ペダルを漕ぎ続けました。この時、私は「生かされてる」なんとも儚く、弱く、脆い自分自身が、奇跡の連続で毎日を生かされているのだと感じました。この冒険は、私の人生を変える特別なきっかけを与えてくれました。このままダラスに移り住みゼロから始めよう。今ここに居る理由を確かめながらでも良い。これから自分自身の人生を、自分の選択と自信を持って言える、生かされている幸運を信じて歩もうと思いました。

逆境でこそ自分の理念・目的・目標・使命に気付く 
「なんのために」の問いに自分自身で理由を持てばよい

私のアメリカ生活は突然終わります。当時の彼女(今はこの女性と国際結婚をして子供は3人居ます)とメキシコに旅行に行き、アメリカに帰ってくる際に入国審査で不法滞在と不法労働の疑いで掴まり、拘置所に入れられました。そして、なぜアメリカに居るのか答えを持って、帰って来たければ帰ってこいと説得されました。そのまま強制送還という形で日本に帰国させられました。当時26歳のいい歳の若者が、真冬にTシャツ短パンで久しぶりの日本の地を再び踏みました。このきっかけは、私にとっての理念・目的・目標・使命に導くための、必要不可欠な出来事だったのだと、今では思います。

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そして、私にとっての人生の第3章へと続きます…

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