中島敦「かめれおん日記」 自分の持っているものを打消すことにばかり
考えてみれば、大体、今迄の生き方が、まあなんという無意味な生き方だったか。精神の統一集中を妨げることにばかり費やされた半生といってもいい。とにかく私は自分を眠らせ、自分の持っているものを打消すことにばかり力を尽くしてきたようなものだ。
嘗て自分にも多少は感覚の良さがあった時分には、私はそれにのみ奔ることを惧れて、自分の欲しもしない・無味な概念のかたまりを考えることによって感覚を鈍くしようと力めた。そうして、結局すべての概念が灰色だと知った時、又、自分が苦心の結果取除くことに成功したところのものが、いかに黄金なす緑色をなしていたかを悟ったときには、すでにそれを取返す術を失っているのだ。私が嘗て、かなり確かな記憶力をもっていた頃、私はこれを軽蔑した。記憶力しか有っていない人間は、足し算しか出来ない人間と同じだと云い、自分のこの力を撲滅しようとした。之は随分無理なことだった。で、少くとも、之を利用することだけは避けるようにした。さて、人間生活の多くの貴い部分が、もっとも基礎的な意味において精神の此の能力に負うていることを、身を以て悟るようになった今となっては、はや(種々な薬品の過度の吸入や服用その他によって)自分にそれが失われているのだ。
中島敦 「かめれおん日記」
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