アントニオ・タブッキ「レクイエム」 ボーイ長

わたしは人生を金持ち人種のなかですごしてまいりました。いつも金持ちのそばにいるのに、自分は金持ちではない、そんな人生は退屈なものです。金持ちとして生きるうえでの精神構造を私は完璧に身につけています。しかし、それをささえる資産がない。精神構造があるのみです。たしかに、それだけではどうにもなりませんね、わたしは言った。ともあれ、今日は、金持から決別の思いを託して、この酒を飲み干します。アレンテージョ会館のボーイ長はつづけた。非礼をわきまえずに申すならば、さらば、金持ち、といったところです。少しも非礼なことではありませんよ、わたしは言った。金持ちをほうむる気持ちで飲みたいとおっしゃるなら、あなたはその資格を十二分におもちだと思います。わたしの欠点をご存じですか?ボーイ長がたずねた。なにごともおろそかにできないという性分です。あれはどうか、これはどうかと気苦労ばかり重ねてまいりました。金持ちのことばかりを気にかけすぎました。ご機嫌はどうか、サービスに落ち度はないか、いいものを食べているか、いい酒を飲んでいるか、くつろいでおられるか。たわけた真似をしていたものです。金持ちはいつだっていいサービスを受け、いいものを食べ、いい酒を飲み、いつだってくつろいでいるに決まっています。彼らの心配ばかりに明け暮れていたなんて、愚かさのきわみです。でも、これからは態度をあらためます。精神構造を変革します。あちらは金持ち、こちらはちがう。そのことを頭に叩きこみます。彼らと私のあいだにはなんの共通点もない。たとえ彼らの世界のなかで生きてきたところで、御たがい相手とが縁もゆかりもないのですから。それは階級意識というものですね、わたしは言った。そう呼んでいいでしょう。私にはなんのことやらわかりませんが、思案顔でボーイ長は答えた。それは政治がらみの言葉ですね。なにしろわたしは政治向きのことには不案内な男です。政治に割く暇などなかったのです。一生働きどおしでしたから。


アントニオ・タブッキ 「レクイエム」

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