夏目漱石「坑夫」 心に連続がなくなっては
昨夜(ゆうべ)のことは一から十までよく覚えている。しかし昨夜の一から十までが自然と延びて今日まで持ち越したとは受け取れない。自分の経験は凡てが新しくって、かつ痛切であるが、その新しい痛切の事々物々(じじぶつぶつ)が何だか遠方にある。遠方とにあると云うよりも、昨夜と今日の間に厚い仕切りが出来て、截然(せつぜん)と区別がついた様だ。太陽が出ると引き込むだけの差で、こう心に連続がなくなっては不思議な位自分で自分が当(あて)にならなくなる。要するに人世は夢の様なもんだ。
夏目漱石 「抗夫」