夏目漱石「それから」 人を斬ったものの受くる罰
「そんなに佐川の娘を貰う必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父の顔が赤くなった。
代助は父を怒らせる気は少しもなかったのである。彼の近頃の主義として、人と喧嘩をするのは、人間の堕落の一範疇になっていた。喧嘩の一部として、人を怒らせるのは、怒らせること自身よりは、怒った人の顔色が、いかに不愉快にわが眼に映ずるかと云う点に於て、大切な我が生命を傷ける打撃に外ならぬと心得ていた。彼は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有っていた。けれども、それが為に、自然のままに振舞いさえすれば、罰を免れ得るとは信じていなかった。人を斬ったものの受くる罰は、斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じていた。迸る血の色を見て、清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助はそれほど神経の鋭い男であった。だから顔の色を赤くした父を見たとき、妙に不快になった。けれどもこの罪を二重に負うために、父の云う通りにしようという気は些(ちっ)とも起らなかった。彼は、一方に於て、自己の脳力に、非情な尊敬を払う男であったからである。
夏目漱石 「それから」