内田樹 日本人が集団で何かを決定する時、その決定にもっとも強く関与するのは

日本人が集団で何かを決定する時、その決定にもっとも強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」であると看破したのは山本七平でした。

私たちはきわめて重大な決定でさえその採否を空気に委ねる。かりに事後的にその決定が誤りであったことがわかった場合にも、「とても反対できる空気ではなかった」という言い訳が口を衝いて出るし、その言い訳は「それではしかたがない」と通ってしまう。

戦艦大和の沖縄出撃が軍略上無意味であることは、決定を下した当の軍人たちでさえ熟知していました。しかし、それが、「議論の対象にならぬ空気の決定」となると、もう誰も反論を口にすることができない。山本七平はこう書いています。

「これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の最後の言葉はどうか。『戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏しようと思わない』であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう。彼が「ああせざるを得なかった」ようにしたのは『空気』であったから・・・・・・。」

もちろん私たちもなにから何まで空気で決めているわけではありません。どういう空気を醸成するかについて、それぞれの立場から論理的な積み上げをそれなりに行ってはいるのです。でも、論証がどれほどの整合的であり、説得力のある実証が示されても、最終的には場の空気がすべてを決める。場の空気と論理性が配置する場合、私たちは空気に従う。場をともにしている人たちの間で現にコミュニケーションが成り立っていることの確信さえあれば、「お前の気持ちはよくわかる」「わかってくれるか」「おお、わかる」という無言のやりとりが成立してさえいれば(しているという気分にさえなれれば)。ほとんど合理性のない決定にも私たちは同意することができます。「自分のいいたいこと」が実現することよりも、それが「聞き届けられること(実現しなくてもいい)」の方が優先される。自分の主張が「まことにおっしゃるとおりです」と受け容れられるなら、それがいつまでたっても実現しなくても、さして不満に思わない。私自身がそうなのです。まことに不思議な心性というべきでしょう。


内田樹 「日本辺境論」

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