辺見庸・高橋哲哉 これを子どもたちに見せてほしいと私は思う

高橋 この国は、いまだに歴史の負の部分、闇の部分を引き受けられないでいる。日本の近代の歴史の負の遺産を徹底して批判的に解体して、この国の「形」を根本から変えるような・・・統合という言葉を使うかどうかは別として・・・取り組みをしていかないといけないんじゃないかな。「自虐史観」などと大騒ぎする人たちは、自己愛的にしか国を愛していない。国の歴史に汚点があると、自分の存在が持たない。これほど過去の現実に直面できない社会、無意識に国にもたれかかった個人、なんでそんなにひ弱なのかと思うんですよ。

辺見 「国を愛する」というときの国の実体が僕にはわからないのです。どこに愛すべき国の実体部分が、手触りできるものとしてあるのか。高橋さんは前に、この国自体が歴史修正主義で成り立っていると指摘されましたが、私は同感しますし、かつまた虚構の上に成り立っているとも思います。両手で抱きしめて愛するには、この国はあまりにもむなしすぎるのです。なぜなら人類史上、たぶん、初めてのまったき消費国家だからということもある。虚業が実業を完全制圧した初めての国でしょう。一億二千万人という人口規模の国としてはね。第一次産業の就業人工がとっくに10%を切っている。この国でコストをかけてモノの生産なんてやるのは刑事犯罪に等しい愚挙という空気もある。これじゃ、人倫を語ろうったってそぞろむなしいのですよ。

唐突ですが、東京都のごみ処理場があります。テレビ番組の取材で行ったのですが、あそこの粗大ごみを処理するヤードで目を見張りました。在庫処理として捨てられた一度も使われたことのうち文房具や家具までが、どんどん破砕されていく。人形も家電製品も自転車も。型落ちしたパソコン、携帯電話も、おびただしい数が毎日どこかで捨てられている。底なしの虚無だけがこの風景を支配しています。

ローザ・ルクセンブルグによれば、資本というのは「虚空の輪舞」だそうです。それ自体に何らの目的はなく、ひたすらむなしい踊りを踊りつづける。そうしたむなしさの最たるものが、この国には漂っています。安価な労働力を探し回っては、他国でものを作らせ、食料を大量輸入しては、食いもせずに捨てまくる。自給率はたったの40%くらいなのに、です。これじゃ道義や人倫を語りえないのですよ。国自体が虚構じみている。そのような“いま”に痛苦な内省がないのだから、過去を反省するバネもできない。皮肉を言えば、国の足腰や精神性は、本当は“戦争協力法”の内実にさえついてってないのかもしれない。

高橋 そもそも戦争なんかできっこないと。体力がないわけだから。

辺見 この国の現在には、道義というものの生じうるのか疑問に思います。額に汗して働くということを、こんなにも小バカにして、投機と消費を、生き残る唯一のすべのように語る。国を挙げて消費や射幸心をあおり、消費者金融が大儲けしている国が、いったいぜんたいどんな道徳を語ることができるのでしょうか。それは今の社会的荒廃といったことと地続きの問題だと思うわけです。何を次代に、そして子供たちに言うのかと。

高橋 使ってないボールペンなど消費ですらないですね。消費というのは、こんしゅーむ、使い尽くしてしまって何も残らないこと。でも消費さえしてない。消費の消費というか・・・・・・。ゴミから我々の社会を逆照射してみるとどうなるのか。辺見さんは、同じテレビ番組でペットをガスで殺すところもリポートしてますね。あれってホロコーストじゃないですか。

辺見 犬がキャンキャン泣いてね。わかるんでしょうね。殺されることが。犬たちの目の色がとても深いのですよ。一度見たら忘れられない。年間数十万匹も犬とか猫とかを「殺処分」しているらしい。それは「有用なもの」と「無用なもの」とを分別する資本の論理でしかない。本質的には、犬も人もモノも同一の理屈で処理されている。残酷とか無残とか言っても、これがわれわれの税金で維持されているシステムなのですよ。不要になったら捨てられ、殺され、焼かれて、その灰を肥料に使って果物を育てているところもある。犬を殺し、焼くのを、いやでも日々の業とせざるをえない人々もいて、その方たちの目の色も深い。むろん、彼らには何の罪もありません。

これを子どもたちに見せてほしいと私は思う。だれかが猫の首を切ったとかと報じられることがあるけど、もっとシステマティックに大量に、しかも“公的に”ペットは殺されていて、その全工程を消費資本主義が無感動に支えている。あの殺しの装置は各自治体がもっていて毎日毎日、この国の空にはペットを焼く煙が上がっているわけですよ。修身みたいな古めかしい価値を持ち出してくるんじゃなく、人倫というものの根源の問題をこうした消費の全域から考えてみてもいいのだとぼくは思います。

高橋 歴史というのは、そういう部分を見ることでしか、見えてこないですよ。現代社会は一皮むくと、ホロコーストの構造をもっている。もの、動物、他者たちをボロくずのように捨てていくんです。ベンヤミンという思想家が、本当の歴史家は文字通り歴史のボロくずを拾うんだという言い方をしています。いわゆる正史をむしろ逆なですることを使命にするんだと。辺見さんのリポートなどは、まさにそういうお仕事じゃないかなと思いましたね。


辺見庸・高橋哲哉 「新私たちはどのような時代に生きているのか―1999から2003へ」

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