「犯罪季評」 わ家族のメルヘン・どうしようもない現実
別役 たいした事件じゃないんだけど、僕が好きなので子連れ泥棒ってのがありましてね(6月・東京)。奥さんと亭主と子ども二人、イヌとネコを車に乗せましてね。泥棒しながら全国行脚してた。
朝倉 こりゃ何となく・・・・・・。
別役 ね、メルヘン。この人たちは、イヌとネコをいっしょに連れている。子どもたちが退屈するといけないからって、これがね、単にイヌやネコを買うという現代の風潮とは違う形での、家族というものの中にイヌがいてネコがいる、そういう風景をつくっている。動物愛護協会あたりは、こういうのを美談として表彰するとかしませんかね。
朝倉 イヌも楽しかったでしょう、と。まっとうですよ。この家族は。これの、もっとすごみのある形がグリコ・森永の犯人のグループでしょうね。自分らなりの共同性の基本をちゃんと持ってますよね。えーっと・・・・・・子連れ泥棒のかたがたはお骨(こつ)を持ってるんですね。
別役 そう、遺骨持ってんです。遺骨。以前に死んだ子供の骨ね。
朝倉 かなり完璧に世界を構築してますねえ。ぼくはこういう世界が増えるんじゃないかと思いますね。明るくやるには、いまのシステムの中でなおかつ明るくやるには、これしかないよ、もう。定住してたらこんな余裕ないでしょ。
別役 子どもが登校拒否する。もういい、と。お前、学校行かなくていいよ。オレも会社へ行くのやめる。じゃ、みんなで車に乗ってどっか行こう、といって行っちゃう、そういう風な発想になる可能性を・・・・・・。
朝倉 期待したい、と。だいたい泥棒しなかった人間はいないと思うのね。どこかで必ずしてる。オレなんかやってますよ、いろいろと。
別役 泥棒って、考え方の上では、要するに必要なものを有るところから持ってくるということだからね。
朝倉 そして、社会の許容範囲のうちで、あまり罪の意識もなくて泥棒すると、それをパクった警察の方も寛容だってこともあったんです。学生の遊び半分の万引きとかね。その場で払うか後になるかってあたりで、みんなやったはずです。そういう、泥棒の形態ないし背後の精神性みたいなものを、もうちょっとね、裁判所なども考えてほしいね。今は主に形態論だけ、形式論理でやってるけど、犯罪ってもともとそうしたことに納まらない、ある種の文化領域まで含んで起きてくるもので・・・・・・裁判所じゃ無理でしょうな。
別役 たとえば山窩なんかは、竹細工などの仕事もしたろうけど、自然が豊かで、そこへ行って自然がもたらしてくれたものを探った。これだけ物資が豊かになって、スーパーにモノが並んでいると、それと同じような感覚が、山の木に実が成っていると同じような感覚が出てくるよね。物があるんだから、事実。しかも、これととったらあの人が困る、というせっぱつまったドラマは少ない。自然採集と同じということになっていくだろう。
●世間の知恵で生きる
朝倉 店の方も、万引き率なんかは織り込みずみ(注4)ですしね。そうした社会の中で、大枠としての秩序を守るために警察というものがあって、一罰百戒というか、見せしめ的に摘発しているわけでしょう。例えば東京の吉原というソープランドの町があって、そこには売春があるってのはだれでも知ってるわけです。年に一回ぐらい、警察がやるんだよね。売春だぁ、といって。こりゃいいですよ。お巡りさん、やってくれて、年に一回くらい。まあ、店の方は大変だろうけどね。ところがニュースを受けとめる人たちが、これは年に一回、お互いに芝居をやってるなってふうに見ないのね。ケシカランと思っちゃったりするんですよ。本気で。それがまた世論を動かしたりする。これは困りますよね。一般庶民を証する人に、庶民の知恵がなくなっているんです。警察も目くじら立てなかったですよ、これまでは。風俗班もたまたま挙げた。おのずからなる成り行きで、というようなことできたと思うんですよ、江戸の昔から。ここは一つ、お前んとこ泣いてくれ、みたいな。
別役 撲滅したいってことじゃないんだよね。
朝倉 そう。でも、その感覚が世間にも警察にもなくなってきている。端的にいうと、警察の独自の裁量権がなくなっているんです。内務官僚がでかい面するようになってきた。警察の現場の人間が、自分の感覚でものがいえないみたいですね。新宿あたりで子どもを補導しても、今日のところは目をつぶっとくからあんまりウロウロするんじゃないぞと、前はそういうことで動いてきた。いまはとてもそんなことできないらしいですよ。あとで上で問題にされるとこわいから、風営法改正以来、どんどん進んでるようです。
・・・・・・ほかに、この際ふれておきたい事件はありますか。
朝倉 拒食症殺人事件というのがありました(6月・長野県)。これは高一の姉が拒食症で、入院していたのが退院してぶり返してしまう。妹が中一で、これがまたコロコロと太った健康な子だったんだって。その子に姉が、こんど完全に退院できたらクッキーを作ってあげるからね、といったときに、妹が太るからいやだといった。その晩に殺しちゃうんです。ナワ跳びのナワで。拒食症の人ほど他人に食事を勧めたくなる心理っての、よく分かるんだけど、もう一つ、この姉は自分の入院で、ふつうの家庭の姉を妹の関係を壊してしまったという罪の意識があったと思う。だから退院してきて、姉らしい言葉を探した。その時に、はしなくも「クッキー」という食べものを、自分にとって一番切実なものを選んでしまった。あ、しまったと思ったとたんに、太るのイヤという残酷な言葉が妹から返ってきた。この姉さんにとって、食べるということがすごく重い意味になってしまったんだと思いますね。同時に、これは一種の自殺じゃないかという気もします。妹を殺したんだけど、彼女の心のうちでは、本来の自分が妹だった。それを殺した、というような意味で。
別役 ぼくはね、つまんない事件なんだけど……サラダ事件(注5](6月・東京]。会社員の奥さんが亭主を殺しちゃうんだけど、「調べによると、正子が岡山さんにサラダ三パックの買い物を頼んだが、一パックしか買ってこなかったため夫婦げんかとなった。岡山さんが灰皿を投げつけ、竹ザオで殴るなどしたため、正子が逆上、台所にあった包丁を持ち出して刺したらしい」(『東京新聞』)。ね、これ、わかんないでしょ。前後のいきさつがあったとか何とかは、あまり考えたくないわけよ。
朝倉 前後の事情があれば殺人には行かないですよ。サラダというのが象徴的な意味を持っている。
別役 こんな形で殺人事件が起きてね。どうしようもない。芝居では考えつかないですよ。どうしようもないですよ、現実ってのは。
(つづく)
別役実・朝倉喬司 「犯罪季評」
注4 だからといって万引きが発覚したとき店の人に「まぁ、いいや」ち」赦してもらえるわけではない。万引きにも発覚するものとしないものがあって、それもすでに織り込んだ上の“織り込み”なのだから。
注5 「『この味がいいね』と君がいったから7月6日はサラダ記念日」、この歌を表題にした俵万智の短歌集が驚異的なベストセラーになったのが87年。それと事件とはもちろん関係もないが、サラダが“二人の生活”についての、女性の側からするヘゲモニーとなにか微妙なかかわりともつ食品であるらしいことが、双方からうかがえる。