宗教の事件 97 吉本隆明・小川国夫「宗教論争」

小川 「それから何と言っても、一番大きいのは家族の問題です。オウムに入るときに、親と子の間に争いがあった場合が多いんですけれど、その親たちは、世間様に対して申し訳ないとみんな言う。子どもは絶対外には出しませんとか、子供と断絶してしまいたいとかいう人もいるわけです。これは、ものすごい間違いだと思いますね。世間体と親子の愛を天秤にかけて、世間体の方が格段にプレッシャーが強い、というところに日本の問題があります。」

吉本 「子どもが親に反逆して出家する理由には家、親子や兄弟の関係があまり良くなかったということも必ずあるでしょう。社会も家も、両方ともいい場所ではなかった。宗教一般に、家族を超えていくという特質がありますし。

僕は自分の子供が出家したいと言ったら、まず『やってみな』と言うと思う。つまり『それはよしたほうがいいぜ』と言うほど、魅力的な家庭ではないと自分でも知っているからです。」

小川 「それはそうですよね、お互いに(笑)。」

吉本 「その上で、『だめだったらまた帰ってきな』と言うでしょうね。」

小川 「それを言うことが、現代では大変な勇気を必要とするんです、子供に対する情愛を無視された、という親の悔しさもありますから。」

吉本 「そうなんでしょうねえ……。僕のところに、息子が出家したと言うので困っていると言う相談をしてきたおふくろさんがいるんです。育て方は人それぞれ違いますから、僕の意見が普遍的ではないけれど、出家させてみればいいと僕は言ったんですよ。でも結局、息子はとても優秀でいい大学を出ているから。本来なら社会の中でいい職務を見つけて、恵まれた暮らしをしていたはずなのに、あんな宗教に入ってしまったがために……という思いがあるから、そうは言えないのでしょう。親は自分ではその思いは言わないですが。」

小川 「それは、親が期待していたというより、外圧によってそう思わされているんじゃないですか。」

吉本 「外圧もあるでしょうけれど、子供を思い通りにしたいというのは、親の大きな問題だと思いますね。」

吉本 「もう一つ、オウム事件ではっきりと提起された問題は、国家は人を殺しても罪にならないのか、ということです。国家が法律の規定に従って国民の意向を問うて、賛成多数で戦争するなら殺してもいいのか。戦争で人を殺すのは罪にならないのかです。

オウム真理教は、反国家の究極の状態です。彼らの教義は出家主義、現世否定ですから。現世とは何かと考えると、それは市民社会であり、国家ですよ。その中で生きて行くのが苦だから出家する、というのが第一段階。そこで宗教集団として、最終戦争があるという矛盾に従って武器を調達するサリンを作るという段階にまで進んで、さらに実行したわけですね。これは、反国家・反政府主義の極限の行動と言えます。

僕は、左翼は唯物論で、宗教は観念論だから違うという考え方はとりません。宗教が現存しえる理由を考えると、現世が理想的な社会ではない、ということが根本的にあります。それは左翼でも同じです。ただ、それを癒す方法が各々違うだけです。

オウム真理教は、現世の現実と隔絶した教義、境地を求めて出家し、さらに空間としても、真理の王国という別の場所を創ろうとしました。その王国が存続するためには、予言されたハルマゲドンに対応して生き延びなければならない、という筋道で考えたんでしょう。これは、宗教が、社会思想的な行為へと逸脱しているといえます。逆に、社会的通念のみで、現存する国家・市民社会に不満があるという集団もありますね。」

小川 「その不満は僕にもありますよ。」

吉本 「その社会的通念を、何らかの手段で実現しようという集団は、必ず宗教的な部分を持っていると思うんです。

もっとあっさりと言ってしまえば、現在、マルクス主義者と言える人々がいるとすれば、必ずどこか宗教的なんです。マルクス主義でないやつは駄目だとか、資本主義はダメだとか、凝り固まって疑いなく信じている。実際問題として、資本主義が社会主義と較べてどこがどうダメなんだと問うと、すこぶる怪しいにもかかわらずです。」

小川 「宗教の革新には社会否定的理念があります。これは宗教を支えている理念ですけれど、これを野放しにしてゆくとどういうことになるか、アンチヒューマニズム、ひいては破壊主義につながってゆきます。」

吉本 「オウムは社会否定という理念を実現しようとしたんですが、失敗したから悪と決めつけられた。成功すれば、善であるという人の方が多くなったかもしれない。

では、何故国家は人を殺して悪を行ってもいいのか。この問題は、オウムが持っている反国家性の出現と地続きではないかと思えるんです。」

小川 「何故、国家であれば殺人も殺戮も許されて、反国家なら許されないのかという問題は、僕らも考え続けてきましたが、永遠の課題ですね。オウム事件が、それを改めてもう一度考え直させる、鮮烈な問題提起であったことは事実でしょう。」

吉本 「理想の社会のイメージを、善の方向にだけ暢気に考えて来たのが間違いだったのかもしれません。実際に理想の社会をつくろうとすると、多くの問題が出てきます。例えば、ロシアでマルクス主義から脱落していくということが起こった。あれは、やりかたでミスをしたんであって、理念は間違っていないという解釈ももちろんあるけれども、もともと、理想の社会をつくることを善の方向にしか考えてなかったから見落とした問題があったんですよ。」

小川 「オウム問題はの各派、国家と反国家と言うところにあると言うことですね。現実を肯定的に納得せしめている人々の殺戮は許されて、現実を疑わしいものとして全面否定的にふるまう人々の殺戮は許されない、これはなぜなのかという問題提起です。

ドストエフスキーの『罪と罰』で、主人公のラスコーリニコフは、ナポレオンは百万人殺して英雄なのに、僕が、金貸しのお婆さんを殺すのは何故いけないんだ、という疑いに捉えられる。ドストエフスキーの書き方が巧いこともあって、その疑問の必然性が、非常にリアリティをもって感じられます。

これは既に何回も問題提起されているし、殊に文学おいては永遠のテーマといってもいい。しかし、何故オウムは文学から逸脱して、現実の殺人に向かったかですね。例外的に、『罪と罰』に取り憑かれて、確信犯的に殺人を犯した例が三重県にあると聞いていますが、ふつうは悪に踏み出さない。」

吉本 「文学だからこそ、現実よりも悪を包括できるということはありますね。

僕が文学作品を評価する基準となる立場は、なるべく最大限に、善も悪も包括できているかどうか、というところにあるんです。それからもうひとつ、感受性の幅をどれだけ多く取れるか。もともと僕は左翼文学の影響から考えはじめたんですが、今言えることは、できるだけ多くの善悪を全部包み込んでいる方がいい。それが文学の左翼性ということではないか、という結論になっているんです。

悪を含んだ現在の作家といっても、永山則夫のように悪を犯した人が書く作品もあれば、人間としては別に悪ではないが、作品でもっぱら悪を描く、村上龍のような人もいますね。村上龍は、悪のかなり奥底まで描いていますが、今度の『Kyoko』や『69』のように、まるで『坊ちゃん』みたいな善しか出てこない作品も書きますね。時々、悪を際どく追っていた障りを癒す作品を書く必要があるんでしょう。」

(つづく)

吉本隆明・小川国夫「宗教論争」

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