四方田犬彦 わたしは具体的にどのような死を迎えるだろうか
わたしは具体的にどのような死を迎えるだろうか。
こればかりは、誰にも答えようがない。現にこの書物を執筆しているわたしが、刊行を待たずして死んだとしたところで、それはそれで自然の摂理に適ったものであるかもしれない。葬儀に集まった人たちがいくらでもわたしの死の原因を詮索してくれるだろう。原因を定めることが死の恐怖から逃れるために思いつく、一番簡単な方法だからだ。
人は自分の死を思い描くことはできない。あるとき三島由紀夫は、自分にとってもっとも理想的な死とは死を意識せざる死であり、森のなかを散歩していて、たまたま猟師が撃った流れ弾に当って即死することだと書き付けた。その同じ人物が、四十年の後にいたるまでスキャンダラスとして語られる派手派手しい自決をもって生涯を終えたことは、知らぬ人とてないだろう。いかなる形で死を夢見ていたとしても、夢はつねに裏切られる。人はつねに思いもよらなかった形で死を体験するのであり、そのことに価値も意義もない。有意義な死という言葉を人に口にさせるのはつねに政治であり、それは死に外的な夾雑物を持ち込む不幸な行為である。
四方田犬彦 「人、中年に到る」