ティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」 地質学

僕は孤独ではなかった。ただ注意深かっただけである。

プラスの面をあげるなら、実際のところ、僕は平均的なこの大学の同級生たちよりはずっと頭が良かったし、成熟もしていた。そして僕は教室では遠慮なくそういうところをどんどんひけらかした。確かに生意気だったかもしれないが、でも大学の外には現実の世界があったのだ。真剣な世界だ。僕はそのことをまじめに考えていた。僕には何が大事かということがちゃんとわかっていた。たとえば、僕は科学の授業が好きだった。量子力学や元素周期表、原子の動き方、ほんの僅かな過ちがどれほど恐ろしい結果を生むことになるか、僕はその他に歴史や政治科学をも学んだ。僕は世の中に確実なものなど何もないという事実の確実性を好んだ。ウィンストン・チャーチルやデヴィー・クロケットについての本を読むことを好んだ。強迫観念にとりつかれた人々。でも事態が悪化してくると、彼らが世界を動かすのだ。

そしてもちろん地質学。それこそが僕のいちばん愛するものだった。ぺヴァ―ソン大に足を踏み入れたその日から、僕には自分が岩石を専門することになるだろうとわかっていた。

地質学研究家こそがキャンパスで僕の真の我が家となった。寮がどうしても耐えがたくなった夜なんかには、僕は毛布と枕を持って研究室に行き、ドアに鍵をかけ、電灯を消して横になり、周りできらきらとまたたく光にじっと見入っていたものだった。まるで宝石店のショウ・ケースのように、金や銀の薄片、ルビーの赤、蛍石とダイアモンドと葉状雲母、そういう輝かしいプリズム、堅き大地(テラ・フィルマ)、と僕は思った。元素に戻れ。説明するのはむずかしいけれど、地質学は僕に世界はいかにありうるか、そしていかにあるべきかというモデルを示してくれた。岩(ロック)・・・・・・言葉そのものからしてがっちりとしている。静かで安定している。結晶は結晶にしっかり固定されている。花崗岩の最も目立たぬかけらにさえ固く永続的な尊厳が存在した。岩は損なわれなかった。岩は信頼することができた。電子対を共有する結合は堅固であり、電子はどれだけ時を経ても、時代を重ねても、その堅牢さを失わなかった。ときどき僕は二酸化ウランの塊を手にとって、ただそれをぎゅっと握ったものだった。僕はそれを頬に押しつけた。僕はその性状を細かく検分した。色彩は紫がかった黒、垢と黄色がちょっと、手を触れると僅かにべとつく。色合いは鈍く、不透明で、砕けやすい。そしてそれは安全だった。爆発したりはしなかった。あるがままの世界では、かくあるべき世界では、それは爆発などしないのだ。僕はそれに舌をつけ、味をみてみる。そしてピンポン台やチャック・アダムソンや崩壊する星々のことを思い、終末のことを思った。でもウラニウムは友達だった。そこには耐久性があった。人類はアホだが、地球は寛容だった。地質学においては常に時間というものが存在した。


ティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?