開かれたそのもの
その対話はなんらかの結論に到達するものではない。そうではなくて、対話が真理の生命そのものをかたちづくるのである。対話はその開かれたそのものを糧として、対話者の現前を糧として生きるのである。わたしたちは結末をつけようとして果たさなかった中世の議論とはもう遠く隔たっている。決着をつけることの不可能性を嘆くには及ばない。決着がつかないことのほうが価値あることなのである。
エマニュエル・レヴィナス 「困難な自由 今日のユダヤ思想」
その対話はなんらかの結論に到達するものではない。そうではなくて、対話が真理の生命そのものをかたちづくるのである。対話はその開かれたそのものを糧として、対話者の現前を糧として生きるのである。わたしたちは結末をつけようとして果たさなかった中世の議論とはもう遠く隔たっている。決着をつけることの不可能性を嘆くには及ばない。決着がつかないことのほうが価値あることなのである。
エマニュエル・レヴィナス 「困難な自由 今日のユダヤ思想」