辺見庸「青い花」 わたしはわたしひとりの
わたしはあるいている。わたしがこうしてあるいていることだけが、いまはわたしにとってたしかなことだ。と、おもいつつあるく。言葉と物質のかんけいがズルッとずれてしまった。カイツブリでさえそうなのだから。わたしがわたしとはだれかをかたるのはいっそう至難である。だいたい、自己申告にはもうなんの意味もなくなった。ひとという実体なんかどうでもよいのである。申告手続きが適切か、登録IDが有効か、アカウントナンバーが正しいかどうか、それだけが問題だ。わたしはただいまあるいている。と、おもいつつずっとあるきつづけている。ひとそのものなんかどうでもよくなってしまった曠野ををとぼとぼあるいている。一個のひとそのものよりも一枚のICチップつきIDカードが重要である。どこからか樹の根の湿気ったにおいがしてくる。死。希薄な死。オブラートの死。子どもたちは死んだ。親も妻も犬も死んだ。流木になった。ひとはただひとであることをもって、わたしがわたしであることをただ大声で主張することをもってしては、自己存在をあかすことができない。みとめてもらうことはできない。わたしはチンタラあるいている。第一暗唱、第二暗唱、第三暗唱が合えば、生体認証さえ一致しさえすれば、わたしの内面とその変化のいかんを問わず、わたしはわたしの抜け殻でしかなくても「わたし」と認定される。というわけで、こういったとてもはやなんの存在証明にもならないのだけれども、わたしはわたしひとりの難民である。その昔、さも社会の一大事のように喧伝された「帰宅難民」だの「買い物難民」だのといった、いかがわしいマスコミ用語に出てくるような意味合いのナンミンではなく、相次ぐ大震災と戦火からのがれようとしている国内難民である。いわゆるエヴァキュイ。レフェジー。この名称には昔日はロマンチックなひびきもなくはなかったものである。詩人はすべからく亡命者であり、難民であるべし。ふん、いまさら詩的象徴をじぶんにかさねて気どって言っているのではない。ありていに言えば、わたしは政治的難民でも文学的難民でもない、ただの流浪者である。わたしはあるいている。人間存在とは、精神障害とされるひとも、そうでないとされる者も、政治的難民もまた、じぶんのあからさまな裸形をおそれて、あらまほしい幻影を身にまとい、そうじて裸形ではなく幻影部分を自己申告するものらしいが、わたしはそんな余裕もない。じぶんはいまこんな姿だが、インテリゲンチャであるとか詩人だとか申告したところで、それがなんだとヘラヘラ笑われるだけだ。わたしはあるいている。わたしはあるいているのである。ああ、骨と皮のノラ猫の影がよこぎっていく。横目でわたしを見る。このまえ職質してきた役人によると、わたしの場合、公的には「国内無登録避難民」だったか「域内無登録高齢流浪難民」だったか、そんな分類らしいが、どちらにせよ、ひと昔まえのようにありていに言えばホームレスということであり、ほとんど公的援助はない。どこの避難民キャンプにも公的避難所にも民防核シェルターにもぞくさないとなると、制度的援助資格がなく、ボランティアたちも手をさしのべにくい、はぐれ難民である。
辺見庸 「青い花」