辺見庸 歩くことは、格好よくいえば

歩くことは、格好よくいえば、反復的な思索なのです。でも同時に、しんどいことでもある。なにがしんどいかというと、進歩がないことです。進歩がないことをくりかえしさなければいけない。しかも、進歩はないけれど、退歩はある。階段ののぼりおりの練習を三日もしないと、またやりなおしになるわけです。双六のふりだしに戻る、だね。病院でもやる。病院で手術したり、しばらく寝ていると、また歩けなくなるし。うん、徒労は徒労なんだよ。ただね、徒労という窓口から世界を考えたり、自分の行為や自分の生を考えたりすることは、あながち悪いことではない。だから成果を期待するものがないということはいい。すっきりしている。

カミュでいえば、若いころ、ぼくはカミュが嫌いだったのです。いまでもちょっと嫌いなところがあるけど、倒れてからまた『シーシュポスの神話』を読んだのです。病んでみると、『シーシュポスの神話』ってなんかいいね。サルトルよりも、善かれ悪しかれわかりやすくて、ロマンチックで素直でまっすぐで。シーシュポスは「人間のものはすべて、ひたすら人間を起源とすると確信し、盲目でありながら見ることを欲し、しかもこの夜には終わりがないこと」(清水徹訳)あらかじめ知っていて、しかし、なおかつ歩きつづけたといいます。このくだり、シビれるよね。あんた、シビれないかもしれないけど、俺は超ばかだから、とってもシビれるね。上まででっかい石をもちあげて、山頂までやっと運んだとおもったら、それがまた下に転がっていく。それをまた拾いにいかなければならない。カミュによれば、そのうちその徒労によろこびのようなものを感じるのだというのです。ぼくはもちろん凡庸だから、よろこびなんか感じない。でも、よろこびのようなものを感じるのだと書いた人間がいるということは意識する。ぼくだけではなく、世界というものはそういう徒労のようなものじゃないかと。


「しのびよる破局」  辺見庸

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