ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(31)
エピローグ
アッペンツェルアルプスの急峻な谷に爆音が響き渡る。
「コントロール、こちらオスカー・ワン。予定通り一〇三〇到着予定」
「こちらコントロール、了解したオスカー・ワン」
「こちらオスカー・ワン、天候は問題ないか」
「こちらコントロール、現地は少しガスってる。気をつけろ」
機体は前方の巨大な岩を避けて左旋回した。突然、霧に隠れていた反対側の絶壁がヨナスの眼前に出現し、機体は吸い寄せられるようにどんどん近づいていく。岩のくぼみに生える草一本一本が見分けられるほどだ。パイロットは呆然となすすべもなかった。
「手を離せ、ヨナス」
右側の席に座っていたテオが自分のスティックを操作して機体を反転させた。岩肌が機体をかすめる。
「あ、あの、すいません」
「気流の影響を受けたな。あの距離じゃあ要注意だ」
ヘリは上昇して無事に谷を抜けた。
「ちょっと深呼吸してみろ。ああ、そうだ。いいな、よし」テオは慣れた手つきで機体をコントロールしながら、隣で青ざめている若いヨナスを振り向いた。「なにしろ地形が地形だけに衝突回避アラームは解除してあるから、自分だけが頼りだぞ。いつも五感を働かせてるのが俺たちの仕事ってわけだ。さあ、もう大丈夫だな?あとは任せるぞ」
テオはスティックから手を離した。
「は、はい」
ヨナスは改めて周囲の山々に注意を向けた。眼下には奇岩が連なっている。
「なるべく急な姿勢変更は避けるんだ。でないと吊り荷も大変なことになる」
機体の下十数メートルには病気から回復した牛が一頭吊り下げられていた。観念しているのか、それとも半分気絶しているのか、最初からずっとおとなしい。
「今日はコースを覚えることに集中しろ」
「はい」
「牛は大丈夫だ。心配するな」
「はい」
アルプスの谷間をヘリコプターに吊り下げられた牛が運ばれていくのはスイスでは珍しくない光景だ。牛たちは夏場、涼しいアルプスの山あいで過ごしているが、怪我や病気の牛はヘリで運ばれることになる。赤と白に塗り分けられた機体には1414という数字が読み取れた。民間の山岳救助隊だが、家畜の搬送も仕事の一部になっている。しばらく順調に飛んでいると前方に雲が現れてきた。テオは眼下を指さす。
「見てみろ、ヨナス」
深い谷の間にひっそりと小さな湖が隠れている。その鏡のような水面は周囲の緑を映して、見る者を誘い込むかのようだ。
「あそこだ」
テオが示したのは小さな湖の先の牧場だった。手をふる人影が豆粒のように見える。
「あそこに降りるぞ」
「はいっ」
「いつも通りにやれば大丈夫だ」
ヘリは牧場の端に建っている大きな納屋に向かって降下した。
「この辺は気流が悪い。気を抜くんじゃないぞ」
「はい」
「あのやっかいな山のせいで予測できないんだ。ベテランでも近づき過ぎるとやられる」
ヨナスは前方に目をやった。ちょうどその時、山を覆い隠していた雲が切れ、谷を塞ぐように聳え立つ嶮しい山が眼前に現れた。
「あれがゼンティスだ」
初夏。アッペンツェルアルプスの雪解け水が小川の水量を豊かにし、流域の植物を芽生えさせる。谷間の湖のほとりにあるチーズ農家では、一家総出でヘリが運んできた牛を迎えていた。
「テオ、助かったよ。これが頼まれてたやつだ。一年寝かせた上物だぞ」中年の農夫が丸い包みを手渡した。
「そいつはすごい。うちの奴が他のを食べたがらないんだ」テオが笑って財布を取り出す。
「そうだろう、そうだろう。少しおまけしといたよ」
「悪いな、ダニー」テオは乗ってきたヘリに振り向いた。「ヨナス、ワイヤーは収納できたか」
「完了です」ヨナスは収納ハッチを確認している。
「さて、そろそろ戻らなきゃ」
「またなんかあったら頼むよ」
そこへ花摘みをしていた幼いダニエルの娘が戻ってきた。
「お、ユーディー。素敵なペンダントだな。でもちょっと重そうだぞ」
彼女の首からは大柄で古風なペンダントが下がっている。ダニエルはユーディトを抱き上げながら言った。「そこの小川で見つけたんだ。たぶん雪に埋まってたのが流れて来たんだろう」
「ふーん。値打ち物じゃないのか?」
「まさか。こんなゴテゴテしたもの、どうせオモチャだろう。だからユーディーにやったんだよ」
「まあ、確かにそんなふうに見えるな」
「これはあたしの宝物なの」幼いユーディトは赤い頬を膨らませた。
「ああ、そうだったなユーディー。おじさん、失礼なこと言っちゃったね」
「テオ、そろそろ行かないと」ヨナスはもうヘルメットをかかえている。
「わかった。じゃあな、ダニー」
二人はヘリに向かった。目を上げると、抜けるような青空をバックに遠くゼンティスが見えている。
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