ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(18)
第2章 3つめのスケッチ
京都府南丹市
「え?なんでそんなこと聞くの?もう何度も謝ったじゃない」
京都府中部の小さな盆地にあるその学校は、工芸の実践的な教育を主眼としている。もともと留学生は少なく、仏像彫刻科にはパトリツィア一人だけだったが、彼女にとってはそんなことはまったく問題にならなかった。通常、仏像彫刻を学ぼうとすれば仏師に弟子入りするしかなく、そうなると住み込みで10年はかかってしまう。パトリツィアもそこまでは求めていなかったので、いわばカジュアルに仏像彫刻を学べるこの学校は、彼女にはうってつけと言えた。この半年で彫ったのはまだ手の部分だけだったが、カリキュラムは充実しており、彼女は自分の選択に満足していた。
「そうじゃないの、トリシャ。ウィーンのエミリアに頼まれたのよ、あのペンダントを探してるんだって」
チューリッヒとの連絡にはもっぱらSNSを使っている。経済性と利便性から、それ以外は考えられなかった。寮の窓からは雪に覆われた低山が見えているが、コタツにもぐりこんでいるパトリツィアは暖かく快適だった。
「エミリアが?なんで」
「あたしだってよくは知らないよ。なんか美術的にすごい珍しいものらしいって」
「そんなこと言われてもないものはないのに。あたし何度も言ったよね」
「だから、別にあんたを責めてるんじゃないって。あのことは、あたしも運が悪かったって納得してる」
「ならいいけど」
「でね、エミリアは知りたがってるの」
「何を?」
「あんたが失くした場所」
「だからゼンティスだって」
「ゼンティスのどの辺かって」
「どの辺て言われても、登山道の途中だよ」
「具体的に知りたいんだって」
「なんて言えばいいのよ、口じゃ説明できないってば」
「そうねえ。あ、マップに印つけて送ってよ。それならわかりやすいでしょ」
「ええ?そこまでする?」
「おねがいよ」
「あたし今忙しくて」
「トリシャ、元はと言えばあんたが…」
「はいはい、わかりました。送ればいいんでしょ」
「頼むわね。待ってるから」
「送ってもいいけど。あのさ、」
パトリツィアは部屋に誰もいないのに急に声をひそめた。
「なに」
「あれは不吉なんだ」
「あれ?」
「うん。あれは不幸を呼ぶよ」
オペラハウスから湖沿いに続く遊歩道を歩いていたステラは、思わず立ち止まってしまった。冬の午後、早くも陽は傾き始め、人通りもまばらになっている。
「ちょっと、なに言ってんのよ」
「ホントなんだって。あれはヤバいんだよ」
「あんた、どうしちゃったの」
「失くなってよかったんだよ。あれのせいで二人とも殺されちゃって。あれは遠ざけないといけないものなんだ」
「なに?あの殺人事件のこと言ってるの。あんなの100年も前の話しじゃない」
「あたし、わかっちゃったんだ」
「なにが」
「あの事件の真相」
ステラは小さくため息をついた。「始まった」
「え?」
「またあんたの直感でしょ」
「そうそう、そうなんだよ。あのさ、去年の夏の終わりに、あたし京都に来たじゃない、留学の準備でさ。その時こっちで仏像を見学したの。仏像ってさあ、ステータスがあるの知ってた?」
「ステータス?」
「うん、段階っていうか。一番上がニョライで次がボサツ。その下がテンっていうの。それでね、テンやボサツはファッションがすごいの。甲冑着てたり冠かぶったり、派手なネックレスやバングル着けてたりするんだ。でもね、でもね、一番上のニョライはシンプルな布を一枚纏うだけで、アクセサリーなんていっさい着けないんだよ。それって凄くない?」
「ねえ、トリシャ」
「その時さ、あたしわかっちゃったんだ」
「トリシャ、あのね、あんたの直感っていうか、何て呼んだらいいかわかんないけど、それは確かにあるんだろうとは思うよ、あたしには理解できないけどね。でも今話してるのは実際に色も形も重さもある現実のモノのことでしょ」
「それだよ。あたしもそのことを言ってるの。それのせいでひいおばあちゃんもひいおじいちゃんも殺されちゃったんだって」
「なんでそうなるのよ。当時警察が徹底的に調べてもわからなかったんだよ。妬みと貧困が原因だろうって言われてるし」
「ずっとずうーっと長い間もやもやしてたものがさ、そのニョライの前に立った時一瞬でパキパキパキって、はっきり見えたの」
妹の声音が変わってきたのがステラには気になった。
「トリシャ、」
「あれはあってはならないものだったんだって」
「ねえ、ちょっと、」
「だからホントは探してほしくない、っていうか探しちゃいけないモノなんだよ」
ステラは再び立ち止まってしまった。そのすぐ脇をスケボーに乗った少年が猛スピードで駆け抜ける。
「だから失くしたの?」
「えっ」
「だから、失くなってもいいと思って山に持って行ったの?」
「ちょっとステラ、なに言ってんの」
「あんた、わざと失くしたでしょ」
パトリツィアは思わずコタツから這い出て正座した。「どうしてそんなこと!」
「だって今あんたが言ったじゃない、あれはあってはいけないものだって」
「そうだけど、なんでわかったの?もしかして直感?」
「違う!論理的な推論よ」
「そうなんだ。ステラも直感、あるじゃない」パトリツィアの声は笑っている。
「そんなものありません」
「やっぱり姉妹なんだね、お姉ちゃん」
「うるさい。あんた、自分がなにしたかわかってるの」
「あたしはね、正しいことしたんだよ。わかるでしょ」
「わかりません。お父さんからもらった大事なものを捨てるなんて」
「正確に言うと、投げただけだから」
「なに?」
「あの山の頂から、朝日の方に向かって思いっきり投げたの」
「あんたって子はほんとに」
「すっごい清々しかった。やってよかったよ」
「トリシャ!」
「だってあんなヤバいもの、持ってたくないじゃない。ステラだってわかってるくせに」
「わかんないわよ、そんなこと」
「素直に認めなさいよ、直感があるって」
「ないわよ」
「楽になるのに」
「うるさい」
冬の陽が対岸の山陰に沈み始め、ステラはヴィオラケースを背負い直すと、もと来た道をオペラハウスに向かって憤然と歩きだした。
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