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『トイ・ストーリー4』(2019年)映画評【前編】※ネタバレ有り

<あらすじ>  (filmarksから引用)

“おもちゃにとって大切なのは子供のそばにいること”──新たな持ち主ボニーを見守るウッディ、バズらの前に現れたのは彼女の一番のお気に入りで手作りおもちゃのフォーキー。彼は自分をゴミだと思い込み逃げ出してしまう...。ボニーのためにフォーキーを救おうとするウッディを待ち受けていたのは、一度も愛されたことのないおもちゃや、かつての仲間ボーとの運命的な出会い、そしてスリルあふれる遊園地での壮大な冒険だった。見たことのない新しい世界で、最後にウッディが選んだ“驚くべき決断”とは...? 世界中が涙した前作を超える、「トイ・ストーリー」史上最大の感動のアドベンチャー。その結末は、あなたの想像を超える──。.



【はじめに 五指に入る涙腺崩壊】

キャナルシティのユナイテッド・シネマで鑑賞。吹き替え版でした。夏休みに入っていたこともあり、多くは親子連れでした。僕の両隣も小学生だったので、上映後に明転したら横のオッさんが涙と鼻水で顔をグシャグシャにしている姿にさぞ驚いたと思います笑。ごめんね。

というのが既に結論ですが、いや本当に素晴らしかったです。『トイ・ストーリー3』は僕が観た映画のトップ5に入る落涙量だったのですが、それと同じくらい涙が止まりませんでした。

僕にとってこのシリーズはそれだけ思い入れがあるというか、母親に初めて映画館に連れて行ってもらったのが『トイ・ストーリー』でした。映画を楽しむ全ての原点にこの作品があるので、本当に『スター・ウォーズ』や『ハリー・ポッター』と同じくらい人生を共に過ごしてきたという気がしています。それに小学校高学年になるまで、ウッディの人形で毎日「ごっこ」にいそしんでいたので実人生に重なる部分も大きい。

だから『トイ・ストーリー3』公開時には僕もアンディと同じ大学生になっていたため、上映後にすぐ実家に帰って倉庫からおもちゃ箱を引っ張り出し、ウッディ人形に感謝を告げました。(←完全にどうかしている)

【完璧なエンディングに見えた3と、高いハードル】

多くの人が感じたように、僕も当時『トイ・ストーリー3』ほど完璧な終わり方はないと思いました。ウッディとアンディの物語に幕を閉じつつ、ボニーという新しいおもちゃの持ち主にバトンタッチされることで新たな物語の萌芽の余韻を残す。脚本は『リトル・ミス・サンシャイン』のマイケル・アーントで、この人本当に天才だなと感じました。

だから9年ぶりの新作と聞いたときに、正直「これ以上語ることがあるのだろうか?」と懐疑的でした。あの3を超えるのは相当ハードルが高いぞと。で、蓋を開けて見たら

「なるほど、そうきたか」

と唸らされました。『トイ・ストーリー4』はウッディのセカンド・チャンスがテーマです。(アンティークショップの名前がモロにそう示している)

【映画全体がウッディへのfarewell(お別れ)】


そして映画全体がウッディというキャラクターに対するfarewell party(送別会)になっているのです。ピクサーという会社の長編アニメーション第1作が『トイ・ストーリー』でした。そこから『モンスターズ・インク』や『ファインディング・ニモ』などの人気作や『ウォーリー』『インサイド・ヘッド』といった傑作を連発していったわけです。

『トイ・ストーリー』がなければこれらの作品はなかったーだから最大の功労者であるウッディに対する、会社をあげた引退興行パーティーがこの『トイ・ストーリー4』だったのです。

farewellという概念は日本では訳しづらいところがありますが、偉業を成し遂げた人が第一線を退く時に業界中、街中、世界中の人々がリスペクトの心を示すための舞台をお膳立てするイメージです。
一番最近だとイチロー選手が引退した時に、マリナーズは故郷の日本に凱旋して開幕戦を組みました。急遽決まった引退なので特別でしたが、こういう粋さがアメリカのプロスポーツでは良く見られます。


『トイ・ストーリー4』も最後はこのfarewellで締めくくられます。この構成はX-MENシリーズにおける『LOGAN/ローガン』やMCUの『アベンジャーズ/エンドゲーム』も同じです。しかしウッディは、ウルヴァリンやキャップ、社長よりも幸せに送り出されたと思います。(単にウッディは死んでないからというのもありますが笑)

【本国では大絶賛も日本では批判も多い本作】

アメリカでは評論家筋からも観客からも大絶賛の本作(Rotten Tomatoなんと100%!)ですが、なんと面白いことに日本では賛否両論巻き起こっています。かなり厳しい評価をする人もたくさんいるらしく、前回の『天気の子』評の冒頭にも書きましたが子どもウケはよろしくないみたい。(まあそりゃそうだよな)

僕の個人的な意見としては今年ベスト級の作品だったと思います。一方でなぜ否定的な意見がたくさんあるのかもすごく理解出来る。端的にいえば寓話としてこの作品のコンテクスト(文脈)を読まずに、額面通りファンタジーとして観ているからだと思います。そうすると1~3で『トイ・ストーリー』シリーズが築き上げてきた設定だとか大前提をいくつもブチ壊してしまっている上に、それまでの感動を全否定する展開に怒りがこみ上げるのも無理はないでしょう。

【シリーズに見る多層的・重層的なコンテクスト】


『トイ・ストーリー』はしかし1作目から非常にオトナの映画でした。ウッディ達おもちゃとアンディたち人間の関係性にはいくつかのメタファーになっています。
一番分かりやすいのは親子関係で、ウッディは父親のいないアンディにとっての父親代わりのような存在です。ただし血は繋がっていないので完全な親子ではない。ベビーシッターと子どものようにも読み解くことができるかもしれません。

またこれは役者と観客の関係性のメタファーにもなっています。おもちゃ達は一種の劇団のようなものであり、子どもが「今日は海賊ごっこ」とか「今日は宇宙探検」とか考えたお話に乗っかって即興で芝居をしてあげる俳優を象徴しています。お気に入りでレギュラーのおもちゃは一座の看板俳優のようにも見えますし、逆にそうでないおもちゃは舞台そで(押入れ)からそれを恨めしそうに見ています。そして子どもが視線を逸らした瞬間(カメラのカットが切れた瞬間)に、みんな素の表情に戻る。この「役者のメタファー」というのはエンドロールのお遊び「NGシーン集」をわざわざ作っている所からも明らかです。


もっとも私達が一番共感出来るのは、シリーズを通して常にこれが「人生論」や「仕事論」についての物語になっていることでしょう。おもちゃと子どもの関係は労働者と雇用主の関係に置き換えられます。カーボーイ人形のウッデイは少年アンディの1番のお気に入りで、つまり職場で一番優秀で人望も厚いリーダーです。しかし彼はこの職場の中でしか輝けないお山の大将でもあります。狭い世界の中で、それでも自分にとっては完璧なバランスが保たれているからそこに満足してしまっています。(これは今作『トイ・ストーリー4』への壮大な伏線になっていた!)

しかしそんな状況に風穴を空けるのが、新参者のバズです。保守的なウッディと新世代のバズというのは、2人が古風なカーボーイと未来的なスペースレンジャーだということからも対比されています。また面白いのはドラマや映画は新参者が主人公で、既成概念を次々にうちこわしていく事にカタルシスを得る作品が多いのに、『トイ・ストーリー』では逆になっています。

(キムタクのドラマはほぼ毎回このパターン)

アンディの1番のお気に入りの座を奪われてしまったウッディが彼に嫉妬するというのが1作目のストーリーです。そしてそのテーマは「自分だけが特別なんだという思い上がりを否定されて初めて、真の人生が始まる」ということです。

ウッディはアンディの1番のお気に入りという特別なポジションが安泰なものだと過信していたし、バズは自分が本当にスペースレンジャーなんだと思い込んでいました。その思い上がりを否定された2人がタッグを組み、現実と向き合う姿には普遍的な感動があります。

さらに『トイ・ストーリー2』『トイ・ストーリー3』では、雇用主である人間の残酷性に対して自由意志を持って抵抗するおもちゃが常に悪役となります。これはまるで『ブレードランナー』におけるロイ・バッティのようです。人間によって作り出された存在であるはずの「おもちゃ」が人間の奴隷であることに反旗を翻す。こんな文脈が新たに登場するのです。

要するにこのシリーズは、血の繋がりのない擬似家族の寓話でもあり、役者の悲喜こもごもを描いたエンターテイメント業界のメタ話でもあり、仕事が人生の全てになってしまっている男が毎度毎度その価値観を揺さぶられて苦悩する人生哲学の教訓話でもあり、人間が気まぐれでどこかにある命の灯をフッと消してしまうことをゾッとするような形で思い起こさせる社会批評でもあるわけです。

【本作が批判されるいくつかの理由の分析】

恐らく本国アメリカの観客の多くはこの物語の多層的な構造を意識し、これが寓話であることを前提にして観ています。物語が何を伝えたいのかを能動的に理解しようと思って観ています。だから本作を手放しで絶賛する。これまでの3作品で、あえて描いてこなかったこと・伏せてきたことに問題提起するその姿勢を評価しているのです。

この点においては僕は『最後のジェダイ』にも通じるものがあると思います。これまでのシリーズの問題点へのアンチテーゼ、そしてそこに一定の説得力があったことについては評価出来る作品でした。(一方で、あまりに稚拙な点が多すぎて擁護しきれないのも事実ですが)

しかし、日本の観客はあくまで「実はおもちゃに感情がある」というファンタジーとしてこの作品を観ているのではないでしょうか。誤解のないように強調しますが、別にこの事を否定しようというつもりは全くないです。むしろ無宗教が多数派の日本だからこその見方とも言えます。例えばジブリ作品が何かのメタファーだと考えるよりも、

このアニメでは人智を超えた神秘的なことが起きるんだからそこに余計な説明は要らない

と割り切る人が一定数いる。だからあれだけ難解な物語が毎回大ヒットするんじゃないでしょうか。しかしながら、額面通りに物語を観ていくと今作は色々な崩壊が散見される。それを今から挙げていきます。

①おもちゃの定義が滅茶苦茶

今作で初めて子どもが作った"おもちゃ"のフォーキーが登場します。しかしフォーキー自身が自負しているように彼は僕らが考えるとことのおもちゃではない。ならおもちゃの定義とは何なのか?

そもそもおもちゃが感情を持っているなんていうのはあり得ないことで、でもそこに説得性を持たせるために過去作では設定を工夫してきたわけです。しかしフォーキーがおもちゃでいいんだったら、人間が作った創作物にはもれなく感情が吹き込まれてしまう。それこそ街中の看板だったり絵画だったりギターや家具などにも。これをアリにしてしまったら、もう何でもアリだろ!と全てがどうでもよくなってしまう人が出ても仕方ないことだと思います。

②人間が馬鹿すぎる

これは僕も正直思いました。特にボニーの両親はかなり間抜けに描かれていたので、子どもを連れてきた親は不快に思っても仕方がないかななんて。しかしそれに限らず今作は今まで以上に人間が愚鈍な存在として描かれています。おもちゃ達は人間の感情や行動を簡単にコントロールして、そこに乗せられていってしまう。しかも元はと言えばおもちゃは人間によって作られた存在なわけですから、それが創造主よりも賢いことに居心地が悪くなる人もいるでしょう。

フォーキーがギャビー・ギャビーにウッディの話をするときに「アンディにまだ未練があるみたい」的なことを言いますが、どんだけ頭良いんだよっていう笑。

③それまでのキャラクターが全然活躍しない

今作はそれまで物語が紡いできた哲学への疑問提起になっているため、必然的にウッディとボーの対比と恋愛模様が話の軸になっています。またウッディの鏡像関係であるギャビー・ギャビーの物語も重点が置かれている。結果として割りを食ったのが「バズと愉快な仲間達」でした。

ただそういうメッセージなんてどーでもいーわという人にとっては、旧キャラがほぼ書き割り状態なのは満足出来なかったと思います。流石にバズはそれなりに活躍するものの、明らかに今までで一番バカになっていることに怒ってる人も多いと思います。

僕は『ロッキー5』を観て怒りで体が痙攣したことがあるんですけど、それと同じ感覚でしょう。

いやいやロッキーってこんなバカじゃないから!


10年ほど前にジム・キャリーが『イエスマン』という映画をやってましたけど、今回のバズはまさにそんな感じでした。僕はそこまで悪くないと思ったのですが、バズが心の声に傾倒するにはウッディのように自分の哲学が根幹から破壊されるような絶望を味わう必要があったような気もします。


④これまでの3作で積み上げてきたものをブチ壊したから

まぁ一番の怒りの理由はここだと思います。ぶち壊したのは例えば人間とおもちゃの友情・信頼関係です。たまに悪いガキや人間はいるけど、基本的には人間とおもちゃは信頼で結ばれているーそんな牧歌的なファンタジーに冷水をぶっかけるのが今作の展開です。

モリーがボー・ピープを手放す、さらにボーは次の引き取られた先でも捨てられる、ウッディを大切に扱うと約束したボニーが彼を戦力外扱いする、ハーモニーがギャビー・ギャビーを「要らない」とゴミ箱に投げ捨てる…などなど。「これが現実だから」と言わんばかりに徹底的に受難を突きつけるのです。

さらに今まで悪役が持っていた価値観が、今回ボーというヒロインによって正当化されるのも驚きです。人間にただ支配されるだけではない、自由意志を持ったおもちゃ。ボーは特定の子どもに属さない、いわばフリーランスのノマドワーカーです。彼女は「子どもはおもちゃを失くすもの」「ある日突然関心を失って私たちを捨てるもの」と達観しています。

この点においてはプロスペクターやロッツォと同じ人間観だと言えるでしょう。それはウッディのプロ意識とは完全に相対するものです。しかし物語の最後にウッディはボーに共鳴して、ボニーの元を去ってしまいます。
「こんなのトイストーリーじゃない!」と憤慨する人が多い最大の理由はここにあると思います。

【次回予告】

 しかしそれらを十分に理解した上でそれでも僕は今作が一番好きだと声を大にして言いたい。それは『トイ・ストーリー3』で完璧に閉じた・語り尽くしたと思った物語が、まだまだ語ることがあったことに気づかせてくれたからです。完璧に思えた『トイ・ストーリー3』さえ完璧ではなかった、これでは救いきれない人がいるのではないか?そこに説得されました。

 前回『天気の子』を観た時に、僕は新海監督が自分に対する批判を受けてそれに自己回答した作品だと評しました。しかし映画は「セカイ系」と称されるその物語論の問題点に踏み込んでいるようにみえて、最後の最後でちょっと日和ってしまった感がありました(天気だけに)

 対して『トイ・ストーリー4』は踏み込みすぎってくらいアクセルを踏んでます。そのせいで、物語全体のバランスを欠いているかもしれません。所々にヒビが入っているかもしれません。でも、そのヒビこそが勲章なんだと思うのです。ボロボロで傷だらけで汚れのついたおもちゃのように。

 ということで『トイ・ストーリー4』の何が良いと感じたかは後編に続きます。


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