【勝手にふるえてろ】(2018年)映画評
※この記事は2018年2月に書いたものです。
<望遠鏡と顕微鏡>
小説「勝手にふるえてろ」を読んだのは大学2年生のときのこと。当時はその軽妙な文体が面白くてスラスラと読み進めていった。楽しく笑えて読みやすいコメディだと思っていた。今回改めて読み直すと思いのほか心に刺さった。それは、社会人になったことでヨシカが社会と上手く順応出来ないところにシンパシーを感じたからだろうか。さらに映画を観て驚いた。その刺さり方がより痛切なものになっていた。僕のように、この映画を見た多くの人が「これは俺/私の映画だ」と思ったのではないだろうか。
その手の作品は何も今作に限ったものではなく世の中に数えきれないほどある。一番分かりやすいのが太宰治だろう。彼は「あー俺ってダメな人間だわー」という自分の情けなさだけをほとんど書き続けた。そしてそれは時代を超え今も多くの人の心に突き刺さる。
私たちの心を打つもう一人の作家は宮沢賢治だ。「雨ニモ負ケズ」という詩を要約すれば
「別に俺は特別じゃなくてもいいから。普通でいい普通で、あー普通になりてー」
という感じか。詩集や童話を自費出版したが全く売れず、自らのプライドと死ぬまで闘い続けた賢治。その彼が晩年に病床で書いたのが「雨ニモ負ケズ」である。
自分は何者なのか、自分はどうなるのか-気にしたところで何の得もないことに人はなぜ縛られるのだろう。それは私たち一人一人に自我があるからで、その自我が私を私たらしめる。人と同じことや違うことに一喜一憂させる。そしてそれは恐らく死ぬまで続く。だから私たちは向き合わなければならない。そのために古今東西の作家・映画監督・芸術家が答えのない答えに挑み続けてきたのだから。
ヨシカのように望遠鏡で相手をのぞいてばかりいないか?他人と距離をとり、ジャッジし、見下すことで相対的に自分の価値を見出そうとしていないか?相手が自分にどんな対応をするかをまとめて、その統計で自分という人間を理解した気になっていないか?自分がどんな人間なのか。その答えは他人が決めるものではない。顕微鏡を覗き込んで見よう。その中の微生物が自分だとしても微生物なりに生きていくしかないのだから。
<原作に影響を与えたと思われる作品>
とつい自己陶酔に浸るようなポエティックな文章を書いてしまうくらいには私はヨシカと自分を重ねてしまっているわけです笑。誰にも見られてないと思ってiPodの曲に合わせて小躍りして家に帰ったら人に見られちゃった瞬間とか、腹立つことがあったらファックって呟いちゃうあたりは完全に「俺じゃん」という感じだし、「タモリ倶楽部」の空耳アワーでジャンパーを獲得した※「ナゲット割って父ちゃん」を聴いて爆笑し、「マジ神」と呟くヨシカは恐ろしく俺そのものでした笑。
※「ナゲット割って父ちゃん」は空耳アワード2015の大賞に選ばれた傑作投稿。
アメリカのバンドRage Against The Machineの楽曲「Killing In The Name」の歌詞
「now you do what they told ya」が「ナゲット割って父ちゃん」に聞こえるというもの。
コーナーで最も栄誉あるジャンパーを獲得した。
中高6年間を男子校というこの世の監獄で過ごした身からすれば、10年以上片想いを引きずるイタさや、相手を偶像化して妄想の中でストーリーを広げたり、点と点の接触みたいな会話をひたすら反芻して「召喚」することも全然異常なことではないでしょ!と思ってしまう。それぐらいには自分はヨシカ側の人間です。
この映画においては女も男もないと個人的には思っています。もちろん女性にしか分からない苦労とか「これだから男はダメ」という描写のつるべ打ちではあるけど、こと「自我」というテーマの前では性別はあまり関係がない。もう少し丁寧に言うと男は女の幻想を信じて生きています。女はそんな男のことをバカだと思ってます。だけど女も女でその幻想に一応付き合ってあげたりする。それは女が男に対して持ってる幻想もやはり捨てたくても捨てきれないものだから。(かな?断定はできません、男なので)
原作「勝手にしやがれ」に影響を与えたであろう作品の話をします。山田詠美の「ぼくは勉強ができない」です。これは僕が人生で最も好きで大切な本です。シュッとした男子高校生の時田秀美が学校という閉鎖的な社会を常に斜めに見て小馬鹿にしながら、大人になっていく痛快青春短編です。
秀美はクラスで一番美人の女子が男子達の理想の清楚系を演じていることを見下し苦手なタイプだと考えます。それは自分だけがその子の仕草が計算づくなことを理解していると自惚れているからです。ところが秀美はその子から痛烈に批判されます。そうやって他人を分析したつもりでいる秀美の方が自意識のカタマリじゃないかと。
本作のヨシカも他人をけなしてばかりだし他者の自我に人一倍敏感です。「ニ」が「俺いまのプロジェクトで億動かしてるからなー」とうそぶくと、ヨシカは「1たす1もできないくせに」と睨むし、合コンで同僚の来留美が気になっているという営業のナルシスト高杉が自慢話を始めると来留美には分かるように冷笑するのです。
そして極めつけは人の名前を覚えようとしないこと。会社の上司はフレディ・マーキュリーに似ているからフレディ、隣人はオカリナを吹くからオカリナ、営業の高杉は意識高い系だから出木杉くんといった具合に相手を茶化したあだ名をつけます。するとそのバチが当たるかのように、物語後半でヨシカはイチから衝撃の一言を受けるのです。
「名前は大切でしょ?」とヨシカに忠告のような予言を残すオカリナ
それからもう1つ本作に影響を与えていると思われるのが2001年のアメリカ映画「ゴースト・ワールド」です。この映画は綿矢りさの世代的にドンピシャなので、意識していないとしても観ているとは思います。
「ゴースト・ワールド」は高校に馴染めない主人公のイーニドと親友のレベッカがあらゆるものを見下しています。しかし高校卒業後に友人のレベッカは少しづつ社会に順応していくのに対しイーニドはそれが出来ない。そして二人はケンカ別れしてしまい、イーニドは次第に孤独になっていくのですが…イーニドは街の人がみんな自分に無関心なことに気づきショックを受けます。世界を皮肉的にさめた目で見ることは世界と距離をとることに他なりません。「ゴースト・ワールド」とは世界の人々が自分には幽霊のように見えるというイーニドの気持ちを表しています。
映画「勝手にふるえてろ」では突然ミュージカルが始まり、ヨシカが心情を吐露する場面があります。「私なんて絶滅すべきでしょうか」というヨシカの問いかけは、社会と上手く折り合えない彼女の心情が伝わってきます。幽霊と絶滅動物という違いこそあれ、他者との距離を詰められない苦しみを描いている点は共通しています。
<一世一代のハマり役 女優松岡茉優ここにあり>
原作を読んでいる以上どうしてもそれをベースに話を進めていかなければならず申し訳ないのですが、前述したように小説「勝手にしやがれ」の白眉は綿矢りさの流れるような言葉の応酬です。内容はほとんどがヨシカの独白で、しかもあらゆるアクションに対してのリアクションの感情が説明されます。なので非常に分かりやすい。文字も平易だしテンポが良いので映画の上映時間117分以内には読み終わることができるでしょう。
一方で全ての感情が完全に説明されているため書き手が「こう読んでほしい」という限定的な読み方が与えられています。
ところが映画「勝手にふるえてろ」を見ると、膨大なモノローグはバッサリと切り落とされています。説明的なセリフはないし、劇中歌を除けばヨシカのモノローグはそもそも存在しません。それによって作品世界に余白が生まれています。観客がそれぞれ「ここはこういうことなのかな?」と解釈する余地が生まれている、だからこそ冒頭で書いたように「これは俺/私の物語だ」とちゃんと思えるようになっているのです。
小説の実写化のアプローチとして面白いのは「桐島、部活辞めるってよ」とは逆の方法論をとっているところだと思います。原作の「桐島~」は作者の朝井リョウが高校の言語化できないもどかしさをオムニバス形式で描いたものです。特に片思いの切なさを全体のキーにしていて、それがタランティーノや宮藤官九郎の脚本のように物語が進むにつれて交差していきます。
しかし吉田大八監督は映画化する上でテーマを「私たちは何のために生きているのか」という普遍的なものに凝縮したのです。登場人物もスッキリさせて簡略化したことで、青春映画ではなくどんなコミニュティにも置き換えられる人間ドラマとなりました。物語の読み方は小説よりもギュっとしていますが、テーマの答えは観る人の数だけあるので読み解き方に余白を作ったといえます。
では「勝手にふるえてろ」はカットしたモノローグの情報をどうやって処理しているのか。
1つは映画オリジナルのキャラクターの駅員やバスの隣のおばさん、コンビニ店員、釣りのオッサンを登場させることでヨシカと会話させることです。しかもこれ自体が物語上の大きな仕掛けになっていて見事な設計です。
そしてもう1つが松岡茉優の圧巻の演技です。演技をいくら駄文で説明しようとしてもそれは不可能なので「見たからわかるでしょ?」で片付けたいのはやまやまなのですが全く触れないわけにもいきません。
まず注目したのは彼女の黒目です。この映画の中で松岡茉優の瞳における黒目の面積の比率は場面ごとに変わります。ニといる時は彼女の黒目は小さい。ところが彼女が葛藤したり心の闇を抱えている時には黒目が大きくなります。作中一番黒目が大きくなるのがイチとのベランダでの会話シーンです。それがどこまで意図的なのか、松岡茉優のアプローチか大九監督の演出家はたまた偶然かは分かりませんが。
次に卓越した笑いのセンス。特に「はぁ?」ってニにキレるところとか本当に爆笑しました。そのタイミングはもちろん、視線や眉毛の上げ方、眉間のシワの寄せ方とかが非常にスムーズなのにザ・バラエティ的です。彼女は決して美人ではなくファニーフェイスです。けど完璧なタイミングで完璧にグッとくる可愛らしい表情を出せるとことかもう凄すぎ。しかももっと驚くのはこれが初主演作だということです。
けど今回の役がハッキリ言って松岡茉優以外の人間では絶対に考えられないのは、彼女がこれまで女優だけどバラエティの仕事もたくさんこなしてきたことが全部結実しているからだと思えてなりません。ハロプロオタとしてトーク番組でその愛を語ったり、時にはモー娘。とコラボしてダンスしたり、ラジオでは日出高校の芸能コースで全然友達が出来なかったという黒歴史を明かしたり、かと思えばももクロの百田夏菜子とキャッキャッしたり…僕はその全てを見てきたわけではありませんが、彼女の芸能人生そのものが江藤ヨシカというキャラクターとかなり重なる部分があるのかなと思います。だから「勝手にふるえてろ」が彼女の初主演作だったのはむしろ幸いなことかもしれません。メモリアルだからこそ松岡茉優がヨシカとの結びつきをより痛切なものとして表現できたかもしれないから。
本作は原作のモノローグをばっさり切って感情を松岡茉優の顔面力で表現することで成功したわけですが、それ以外にも原作を改編したことで成功している部分があります。
なんといっても「ニ」のキャスティングに黒猫チェルシーの渡辺大知を起用したのは良かったですね。原作の「ニ」はもうちょっと嫌な奴というか、正直ヨシカが生理的にムリなんじゃないかという心情吐露もいくつかあったのですが渡辺大知が演じることで相当マイルドになったと思います。原作ではもっとオラオラで筋肉質で無骨な感じの「ニ」が、映画ではハッキリとヘタレ笑。でも可愛げがあってどこか憎めないので「悪い人じゃないことは分かるけど全く恋愛対象ではない感」が最高に良く表現されていました。
次に大九明子監督のシナリオです。人力舎の養成所に在籍経験もあるということで、とにかく笑いの掴み方が上手です。実は多くの台詞は原作とは違っていて大九監督の台詞になっている。例えば回想シーンで黒板に反省の文を書きなぐるイチに対し、原作のヨシカは
「シンプソンズのバートみたいだね」
と言いますが、映画では
「シンプソンズみたいだね」で1回切り「シンプソンズでね、バートがいつもオープニングで違うことを書くんだよ」とダーっと一方的に説明する。そして我にかえったヨシカはバツが悪そうにそそくさと立ち去ります。綿矢りさの原作が漫談のようにヨシカの一人語りなのに対し、大九版シナリオは漫才のように短い言葉や掛け合いでテンポよく話を組み立てていきます。
台詞以外にも大九監督は対比や伏線という映画的な語り口を意識していて、例えばヨシカが絶滅動物に愛着があるのに対してニがデートに選ぶのが動物園なのとか、イチがヨシカに「君と話していると自分と話しているみたい」だと好意を持つのに対し、ニはヨシカのことが分からないから好きなのだと言います。(ここは原作にはないので、大九監督の考えとか結論が最も色濃く出た部分だと思います)
一方で伏線の張り方とその回収の仕方も非常に上手い。それは前述した「名前」とかミュージカルの独白によって明らかにされる人達もそうなのですが、もっと細部の小道具が効いているのです。例えば「ニ」のリップクリームを塗るくだり。
「お前なにその状況でキス出来ると思ってるんだよ!」
と思わずツッコミたくなるような状況で期待に胸を膨らませる「ニ」ですが当然キスは出来ません。でもこういう笑いがあるからこそラストでようやく…というところの感動がより高まるのです。
携帯電話の使い方も上手くて、この物語においては「他者/社会=自分をくくりつける厄介なもの」の象徴として用いられています。例えば女子社員が昼寝をしているところで、タイマーが作動して一斉に目覚ましのバイブレーションが振動する。ほんのひと時の休息から彼女たちを再び職場に戻す装置として機能しています。
ヨシカも会社を休んでから携帯の着信が来ないかヤキモキします。そこで来留美からの着信を無視するのですが、伝言メッセージが入るとついつい聞いてしまう。そして一計を案じて口実を使って着信拒否されているニを家に呼び出します。携帯電話という小道具がネガティブな側面もポジティブな側面も持っていることが物語のテーマに直結しているのです。
そんな中でも僕が一番感動したのが「ズンズンチャ」の伏線です。ヨシカは上司にフレディというあだ名をつけ、元ネタのバンドQueenの名曲「We Will Rock You」のイントロ部分で観客が足を踏みならしてリズムをとるところを自席の机を叩いて再現します。ここは単純にヨシカの人柄を表すためのコメディ場面でしかないと思って見ていました。
ところがこれが立派な伏線になっていました。失意の中自宅の布団で横になっているヨシカの耳にある旋律が聴こえてきます。それは隣人のオカリナが吹くオカリナの音、ヨシカは思わず壁を叩いてリズムを取るのです。物語前半で他者をバカにするためにリズムを取っていたのが、物語後半で他者と繋がりたいという切望に変化しているのです。
ここは本当に感動的で僕は思わず落涙しました。
このように対比や伏線を散りばめて回収していく。大九さんのシナリオは漫才のようだと言いましたが、もっといえばM-1で見せた和牛の「結婚式」のような素晴らしい構成の漫才です。
<最後のセリフは原作にはない? 赤い付箋の意味とは>
最後に最後のシーンの話をしたいと思います。ずっと原作小説と映画の違いについて述べてきましたが、映画の最後にヨシカがつぶやく「勝手にふるえてろ」というのは実は原作にはありません。というか使われる場面と相手が違うのです。原作では「勝手にふるえてろ」という言葉は物語の後半でイチに向けられています。現実のイチと再会しその隔たりを否応なしに突きつけられたヨシカがイチに向かって(心の中で)言うセリフなのです。
そもそもラストシーンは小説版とは少し違っています。ヨシカはニからプレゼントされた赤い付箋を左胸につけています。二人は激しい口論をしますがついに互いのことを受け入れます。するとヨシカの付箋が胸から落ちてハラハラと舞い、ニのスーツにくっつきます。雨でびしょ濡れのスーツに触れて、付箋はじわーっと湿っていきます。それに合わせて卓球のピンポン球が跳ねる音がどんどん反響して大きくなっていく。するとカメラはヨシカの表情に替わり、彼女は何かを悟ったような表情でつぶやくのです「勝手にふるえてろ」と。
どういうこと?と思った方も多いでしょう。前述したように映画版は余白が多いので、このラストも当然多様な解釈が出来ると思います。ただ原作のラストがこれまた非常に丁寧にヨシカの心情を説明しているので、そこから僕なりに読み解いた解釈を書いていきます。
この付箋がどのように見えたかというのがポイントだと思います。細い赤い紙を見て、何か連想するものはありませんか?そう、リトマス試験紙です。
液体が酸性かアルカリ性かを判別するチェッカーです。つまりあの付箋は「恋のリトマス試験紙」ということです。ヨシカからすれば26年間彼氏なしで操を守ってきた。そんな中での初彼なわけだから、この判断は成功だったの?はたまた失敗だったの?と気が気でならないわけです。そんなヨシカの気持ちを汲み取るかのように、付箋はニの体に落ちてジワーッと水気を吸い取っていく。ヨシカの決断が吉と出るか凶と出るかを測定しているのです。であるならばあのピンポン球の反響音はヨシカの心のザワザワとか、心臓の鼓動を意味しているのだと考えられます。本当にこの人で大丈夫だろうか、そんな葛藤を表現しているのです。
ということはヨシカが言う「勝手にふるえてろ」という言葉は誰に向けられているのか。そう、ヨシカ自身です。彼女は自分で自分に言い聞かせているのです。「やっぱりやめとけば良かったかな」と後悔する自分に対する「勝手にふるえてろ」なのです。
私はやってやるよ、コイツに託してみる。
そんな決意表明の後でヨシカはニに抱きついてキスするのです。そうやって思い切って相手の胸に飛び込んだところで映画は終わるのです。
というのが僕のラストシーンの解釈です。長くなりましたが、大傑作でした。DVDが出たら買うことを検討しても良いぐらいには、ヨシカたちに思いを馳せてしまいそうです。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
(この文章は去年書いたものですが、『勝手にふるえてろ』が現在amazonプライムで視聴出来るようになったので、再掲載しました)