風をあつめて 歌詞考察〜東京五輪への静かな抵抗
どうやらオリンピックは開催されそうである。その可否についてここで書くことはしないが、前回1964年の東京五輪も決して歓迎ムード一色では無かったと聞く。おそらく、いざ始まってしまえばなんとなく盛り上がって、なんとなく上手くいった気分になって、いま紛糾しているあらゆる問題もなんとなく棚上げになってしまう気がする。それが日本人の国民性だから。
はっぴぃえんどの「風をあつめて」が、そういった空気感をシニカルに描写した歌だということは案外知られていない。もっとも、この曲の歌詞については、すでに多くの媒体でメンバー達本人が語っているのだが。
僕自身は、2014年12月にNHK BSプレミアムで放送された「名盤ドキュメント③はっぴぃえんど『風街ろまん』(1971)~日本語ロックの金字塔はどう生まれたのか~」という番組を視聴して、その事実を知った。
最初に結論から書いてしまうが、「風をあつめて」はオリンピックのために再開発が進むことで、「原風景としての東京」が失われる喪失感がテーマになっている。
その上で、松本隆は2020年(当時)の東京五輪について、こう語る。
(1964年の)東京オリンピックみたいな、ああいう良さもないだろうねきっと、日本中が興奮するという。あの時、日本が下を向くなんて想像もつかなかった。
さらに、細野晴臣はこう続ける。
(前回の五輪は)いいこともあったんだろうけど、弊害もある。(2020年に)反省なしでやっていいのかということですけど、僕の場合は。ですから、今こそ『風をあつめて』の歌詞が響いてくる。
見事に予言的中というか、逆にいえば人種問題、格差の拡大、気候変動といった人類規模の問題が顕在化し、SDGsやLGBTQ +といった言葉が頻繁に使われるようになったにも関わらず、「なぜオリンピックをやらなければならないのか」と、そこが紐付けて語られないことは本当に残念でならない。
僕自身、なんだかんだオリンピック熱に流されてしまう可能性もあるので、今の自分の気持ちをこうしてきちんと記録しておきたい。
本題に戻るが、「風をあつめて」はノスタルジーの物語であり、この日本に自分の居場所がないという絶望と孤独を歌ったものである。だから映画『ロスト・イン・トランスレーション』は非常にバンド冥利に尽きる使い方をしていた。
ところが、当の日本では物語性が剥ぎ取られてしまい、「フォーキーでお洒落な曲」としてしか機能していないように思う。
一番驚いたのは、オロナミンCのCMだ。サカナクションがこの曲をカバーしたものがBGMに使われているのだが、オリジナル歌詞で否定される高層タワーが「未来の象徴」として描かれているのだ。一体制作者はどういうつもりでこの曲をチョイスしたのだろう。逆に聞いてみたいものだ。
本題に入ろう。この曲は1番(過去)→2番(過去)→間奏→3番(現在)という構成になっている。1・2番では語り手の少年時代の視点を通じ、原風景としての東京(通称:風街)が賛美される。そしてそのキービジュアルが路面電車である。
汚点だらけの 靄ごしに起きぬけの路面電車が 海を渡るのが見えたんです
それで僕も風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです 蒼空を
2番も同様で、港に泊まっている帆船の美しさを描写している。
伽藍とした防波堤ごしに 緋色の帆を掲げた都市が
碇泊しているのが見えたんです
「昧爽どき」ってなんやねんとググってみたら、明け方という意味。おそらく、日の出の光を浴びて帆が赤く染まっている光景に心を奪われているのだろう。一方で船を「都市」と表現していることからも分かるように、とても不穏な状態が暗示されている。出航と同時にこの理想の「都市」は無くなってしまうのだから。
そして時間経過の役割として短い間奏があり、3番で果たして東京は様変わりしてしまう。
人気のない朝の珈琲屋で 暇をつぶしてたら
ひび割れた玻璃ごしに 摩天楼の衣擦れが 舗道をひたすのを見たんです
まず、語り手の目線が「ひび割れた玻璃越し」の時点で、視線の先を否定的に捉えていると分かる。何を見ているのかというと、「摩天楼の衣擦れが舗道をひたす」ところだという。要するに「ビル風」なのだが、それをここまで美しい言葉にしたからこそ、この曲は永遠に歴史に残るのだ。
語り手にとって、このビル風は美しさとは真逆のものだ。空が開けていた時代の心地よい風は、開発によって奪われてしまった。だから、ここで彼が風をあつめたいと願う意味は、1番・2番とは真逆のものになる。
それで僕も風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです 蒼空を
1・2番では、風街への同化願望だったものが、3番では「ここではないどこか」への逃避願望に変わるのだ。同じ言葉がダブルミーニングを持つ、極めて緻密な構成だ。
そして言わずもがなだが、細野晴臣のボーカルも素晴らしい。あえて朴訥と歌うことで、実に奥行きのあるニュアンスが生まれている。この曲は孤独と絶望の歌なのに、不思議と前向きになれるパワーを持っている。だからこそ、前述したようなCMの使い方も出来るわけである。
同じような例として挙げたいのが「君は天然色」だ。松本の妹が急逝した際の、どん底の気分を歌詞にしたものだが、実際の曲のテイストは全く違う。
さて、あなたなら風をあつめてどこに行きたいだろうか。ここではないどこかに、今よりも幸せはあるのだろうか。
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