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豊かさについて

最近、ある同人誌を読んでいたら、紅茶をきちんと淹れてふるまう描写が良く出てきて、こういうのも悪くないなと思って、久々に紅茶をちゃんと淹れたんですけど。
お湯はきちんと沸騰直前で止めて、ガラスのティーポットに、マリアージュフレールの茶葉を入れて。
それから、茶葉を蒸らすためにポットにお湯を少し入れて、ガラスがじんわりと湯気で白く曇っていくのをぼんやりと眺めて。
きちんと3分待ったあと、糸を垂らすように、たっぷりのお湯を注ぎ入れて、濃い琥珀色の紅茶をカップに注いで。
茶葉が少し古いので、風味は少し落ちてたんですけど。それでも、しみいるような香りと風味は大変よいものだなぁと。

で、その紅茶を口にしながら、リビングのローテーブルをぼんやりと眺めてたんです。
最近新調した、テラゾのテーブル。
テラゾというのは、花崗岩のような石の欠片が入った人工石板のことで、国内では取扱がほぼなくて、わざわざ海外から取り寄せたんですよね。
とりどりの淡い石片が散りばめられた、白くひんやりとしたテラゾの石版の上には、いつもガラスの透明な花瓶を置いているのですが、窓から光がさすと、ガラス瓶のきらきらとした影が、ぼんやりと柔らかくテラゾに映って、それがまた美しいんですよ。
それを温かな紅茶をすすりながら眺めているうちに、ふと、
「幸福とは、別にやらなくてもなくても生きていける、無駄なものをひとつずつ集めていく行為」なんだなぁと思いまして。
紅茶を3分蒸らすとか、お湯の温度を計るとか。
わざわざ地球の裏側から運んできたテラゾを眺めるとか。
そうして、繊細に拾い集めた、手の中の幸福は、まるで木屑のように脆くて、本当にどうでもいいものばかりで。
そもそも、蒸らさなくても、お湯の温度が適当でも、紅茶はできるし、なんだったら蛇口をひねって水を飲めばいい。
テーブルなんて、ホームセンターの合板のちゃぶ台で事足りる。
でも、繊細でどうでもいい幸福は、そういう事じゃないんですよね。


普通、幸福って、財産があるとか才能があるとか家族友人に恵まれることとかを言いますけど、
それらは、突き詰めれば、この資本主義社会で生きる上での利点、不幸を回避する手段みたいな色が強いと思います。
だからこそ、多くの人が大事にして、求めますよね。
それに比べ、この繊細で、生活の役に立たないどうでもいい幸福は、たぶん、日常の中で、気をつけていないと、直ぐに端に追いやられてしまう存在でしょう。
それどころか、端に追いやっているうちに、本当に無駄なものと勘違いして、まぁいいかと深く考えず捨ててしまったりして。
しかし、そうしていくうちに、最後に残るものは、何不自由ないひりひりと乾いた生活なんですよね。
それは、えらく清々しく広大で。
でも、生きて行く分には困らないから、人生ってそんなものか、と思えたりもして。

今になって、この些細な、繊細でどうでもいい幸福の存在に気づいたのは、おそらく、かつてないほど、極端に閉じられた、何も無い世界で日々を生きているからなのでしょう。
コロナ禍が終わって、また濁流のような日々が戻ってくれば、こういう幸福はまた端に追いやられていくと思います。
でも、時々は、この、無駄なものを集めていくような幸福を思い出したいですね。
あえてやる必要あるのかな、などと思いつつ。
それが人生の豊かさというものなのでしょう。

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