
なんもなくても意外とやっていける、という充足感
金曜の夜にやってるルーティンがある。ルーティンと言う割には時々しかやってないのだけど、まぁそういうことはいいとして。
それは金曜の17時から始まる。
金曜は、基本的に在宅勤務日で、何もトラブルがなければ17時ぴったりに仕事が終わる。
パソコンを閉じたら、最初にすることは、出かける用意だ。この時の用意が、ルーティンのきもと言っても過言ではない。
もちものは、家のカギ、現金(二千円程度)、図書館のカードだけ。
そして、カバンは絶対持たない。
持ち物は札入れにいれ、手ぶらで家を出る。
最初に向かうのは、近所の図書館。
私は日頃から図書館を使い倒しており、常時5~10冊は予約してるため、週に1冊くらいは、予約本が手配される。なので、そのなんかしらご用意された本を受け取りに行く。
ちなみに、先週受け取った本は、ブログの読者さんから勧められた「知能のパラドックス」という本。
これはめちゃくちゃ面白かった。
ざっくり言うと、「知能の高い人」というのは、一般の人間より社会的成功を収める確率が圧倒的に高く、リベラリズムで、無神論者で、夜型人間で、薬物依存になりやすく、クラシック音楽を好むが、結婚したり、親になったり、友達を作るといった、太古の昔から人間が生存のために行ってきた「普通の人は得意な普通の行為」が最悪に下手…という話がされている。
ちなみに、知能が低いほど、生殖行為の回数と子供が生まれる数に正の相関があり、知能が高いほど生殖行為の回数と子供が生まれる数に負の相関があるらしい。(知能が高いと避妊するため)
また、知能の高さは遺伝により80%決まるとのこと。
これらを総合すると、世の中の人間は、時代を経る毎に徐々に知能が高い人間が淘汰され、低い人間が増えていくということになる。
ヒュー!
今週は、光浦靖子の「お前より私の方が繊細だぞ」を読んだ。
阿佐ヶ谷姉妹の著書が面白いという話を聞いて、その流れで女性芸人の著書を適当にいくつか取り寄せたうちの一冊なのだが、もうまえがきの時点でセンスがすごい。
「全ての悩みは、お前より私の方が繊細だぞ、から来てんだなと。
繊細とは都合のいい言葉です。感性が豊かで、こまやかで、傷つきやすくて、だからこんなに自分はお前と違って悩んでるんだぞ、と肯定できますから。そんな読者の悩みに輪をかけて、お前より私の方が、もっともっと繊細だぞ、という態度で私は答えています。なんという女でしょう。」
読者からの相談に一問一答していく内容なのだが、短い回答の中に、光浦靖子の文才と鋭い感性が濃縮されていて、軽いのに読ませるものがある。時々、脈絡もなく大久保さんが登場するのもいい。こういうスナック感覚の本、嫌いじゃない。
図書館で受けった本は、カバンを持ってないので、基本直持ちする。
日も暮れて薄暗くなった街のなかを、ただ本一冊だけ小脇に抱え、そのまま駅まで行く。
駅に着いたら、まず切符を買う。
なぜなら敢えてスイカを持ってないから。
券売機の上に掲げられた路線図を見上げ、「その日、図書館から与えられた本を読むにふさわしいカフェがある駅」を考える。
子供の頃のように、路線図を見て、値段を確認して、その値段を覚えて切符を買う、という一連の流れが、改めてやってみると、新鮮で良い。
電車の初乗りが140円になってたことも、それまであまり意識してなかったように思う。
行先の定番は、まったりした雰囲気と周囲の人間観察が面白い西新宿や丸の内のホテルラウンジや、在宅勤務の全盛で夜間はゴーストタウンのように人気がなくなる有楽町界隈のオフィスビルのチェーンカフェ。
目的の駅に着いたあとは、狙いを定めたカフェを数件練り歩き、それぞれの閉店時間を確認して、一番ゆっくり出来そうな店にいく。
というのも、スマホを持っていかないから、閉店時間をネットで調べられず、足で確認するしかないのだ。
あらかじめ調べていけばいいのにと思われるかもしれないが、それはしない。
調べた瞬間に、自分の行動が情報に縛られるためだ。
金曜のルーティンで最も重要な要素と言える。
ついでにいえば、時計も持ってないので、時間も分からず、カフェに入っても、いつも、あとどれ位で閉店なのかわからず過ごしている。
どういうペースで本を読んだらいいかわからず、異様に早く読み終わったり、店を出た途端、街に全く人がおらず、そこで終電近くなっていたことに気づくことも多い。
面白いのは、ホテルのラウンジだと、時々、お会計時に「お部屋は?」と聞かれることだ。
たしかに、いわれてみれば、本一冊だけ持って家から都心のシティホテルに来る人間なんて、普通はいないだろう。
少し前、カフェに行く途中に、銀座のデパートで買い物をしたときも、Tシャツジーパンの割に偉くいい対応をされた。
本と財布しか持ってない手ぶらのお客は、近所に住んでように思えるのかもしれない。
そうして、なんやかんやありつつも、また切符を買い、無くさないように本に挟む。
最寄り駅に着いたら、改札機に切符を通し、徒歩で帰宅する。
こんなことをして、何がいいのか、自分でもよく分からない。
でも、ひとついえるとすれば、都心の真っ只中で感じる、乾いた孤独感がたまらなく心地よいのだ。
高層ビルの、煌々とした冷たい灯りが空まで伸びる雑踏の中を、ただ一人歩く時に感じる、清々しいほどに乾いた孤独感が好きなのだ。
孤独感、というのは単純に、自分一人ということでは無い。
隅々まで整備された都心の街には溢れるような富があり、家路を急ぐ人には、温かい家庭があり、交差点で週末に沸き立つ若者には、華やかな享楽がある。
一方、自分の手には、たった一冊の本と小銭しかない。
しかも、本は借り物だ。
でも、その「なんもなさすぎる」ことに、むしろ澄んだ心地良さを、感じる。
何も持たず、街を彷徨っていると、もう何十年も通った道のはずなのに、知らない風景を見つけたりする。
いつも見ているはずなのに、記憶と違う色をしていることに気づく。
たぶん、いつもスマホを見て、目的地のことばかり考えているから、今、自分の目の前に広がる世界のことを、見てるようで見てないのだろう。
資産や情報は、人間を幸福に便利にする。
でも、それがないと不幸かといえばそうでもない。
そこにあるのは、何も無いことがもたらす、際限なき自由と「なんもなくても意外とやって行けるな」という充足感だ。
それは、いいかえると、生きている実感なのだと思う。