生きることに飽きた件
人間、折に触れ生きがいはなんだ、自分はなんのために生きているのか、など考える。
私も若い頃はなんのために生きているのか?
など思ったりしたものの、この歳になり
「そもそも生きてることに意味は無い」
と思うに至った。
こういうと、楽しいこともあったでしょ?となるだろう。
自分自身、ここ数年をふりかえって楽しいことも多かった。
だからこそ、この世で起きるあらゆる幸不幸は、単なる生の中で起きる一過性の揺らぎの連続でしかなく、生の意義となりえるほどのものでは無いな、と感じた。
身も蓋もない言い方をすれば、人生のあらゆる喜びやかなしみ、たったそれごときでは、生きる価値となりえない、と言う話だ。
しかし、世間はみな生きる意味を必要としている。
子供のために生きてる。
この1杯のために生きてる。
推しのために生きている。
人は何故か自分の生に理由をつけたがる。
なぜ人は生きている意味を必要とするのだろうか?
これは、人が知性を身につけてしまった代償ではなかろうか?
下手に知性を身につけてしまったばかりに、
人類は、生きる意味という概念を作り上げてしまい、自分で作ったなんの意味もない概念である「生きる意味」を求めて人生をうろつくようになった。
その彷徨の果ての産物が、発明、素晴らしい文化、戦争、紛争、この世の全てなのだろう。
知性がなければ、人はこのような世の中を生み出さなかっただろう。
同時に、こんなにも、なんのために生きるのかと悩むこともなかったはずだ。
そう考えると、昆虫という生き物がいかに生物としてすぐれているか思い知らされる。
人間の不幸は、「生きてることに意味が無いことに気づく」ことから始まる。
しかし、虫は、知性がないため「生きていることに意味が無い」ことに気づかないのだ。
ついでに痛覚もないため、痛いからつらい、寒いからつらい、といったことも感じずにすむ。
ただ、そこに存在するだけの生命。
マインドフルネスじゃん。
さすが、この地球上で最も繁栄している種族は格が違う。
仏教では、畜生よりも人間の方が仏に近いというが、本当にそうだろうか?
生の概念も死の概念もなく、苦悩もなく、痛みもなく生きる虫のほうが、仏教的概念を体現しているように思う。
生きる意味についてもうひとつ不思議なのは、
よしんば生きてることに意味が無いとした上での
「生きてることに意味が無いから、生きてる間、楽しもう。」という考え方について。
これはもっともな意見として受け入れられるのに、なぜか「生きてることに意味が無いから、今すぐ死のう」は社会的にダメなのだ。
いやほんと、なんでダメなんだよ…いいだろうよ…それくらい。と思うのだが。
「社会」というのは、ある程度の数の人間がいることを前提として、数の威力でみんなでメリットを享受しようというコミュニティだから、あまりフラフラと勝手に離脱されると、社会が維持できない。
お前が良くても社会がダメなんだよという話で、これは覚せい剤がダメなのと一緒だろう。
しかし、個人としては、考えれば考えるほど
「普通に考えて、人間、生きてる意味ないんだから、自由に死んでもいいだろ…」と思ってしまう。
社会のスケールメリットを享受しておいて勝手な話ではあるが。
死ぬ、にも色々ある。
辛いから死にたいという人には、まだ望みがある。
辛くなくなれば死なない、ということだからだ。
私の言う死にたい、というのは、「スーパーで買い物終わったから帰りたい」に近い。
この世では、スーパーで買い物を終えたあとも、閉店まで店内をうろつき続け、もう一度レジに並んだり、店の端のベンチでだらつく人が大半であり、それが社会的にもいいこととされている。
しかし、私は買うもの買ったらとっとと帰りたいのである。
なので最近は週7日のうち5日はほぼ毎日死にたいと思っており、そのうち4日は
「自分が心から望んだことは大体叶うのに、こんなに毎日願っても死なないのは、どういうことなんだよ…いつ叶うんだよ…しっかりしてくれよマーフィーの法則~」と、誰なのか未だによく知らないマーフィーに泣きついている。
しかし、そんなある時。
念願叶って生命力がどんどん衰え死にかけて、社会人になって初めて無断欠勤(気絶して気づいたら夜だった)をしたのだが……
人間、簡単には死ねないことを知った。
たとえば、もし死に至る病になったとしよう。
しかし、死ぬまでには猶予があるため、徐々に働くに働けない状況になっていくが、生活資金は調達しなくてはいけないため、体力面、生活資金繰りで相当キツい目にあう。
病気なのに仕事をやめられない状態になり、歩くのもしんどい中、通院しながら勤める羽目になる。(がんの人はよくこうなるらしい)
自ら自分の命を始末するにしても、遺族の感情を考えると上手く死ぬのはなかなか難しいし、行方不明も周辺に与えるインパクト大きい。
また、自殺のことを考える度に、自殺に失敗して半身不随になった自殺経験者のいう「若くて生命力のあるうちは、人間、意外とスパッと死ねないものですよ、相当上手くやらないと」という言葉も重く響く。
そもそも、「買うもの買ったらスーパーからとっとと帰りたい」とはいうものの、スーパーの客や制止するガードマンをなぎ倒し、カーチェイスしながら振り払ってまで帰る元気はないのだ。
まとめると、死ぬこと自体は簡単だが、死ぬ前の段階で課される社会的制裁が超ハードモードなのだ。
もう何がなんでも死にたいという前向きで元気な実行力のある人間以外、そうそう耐えられるものじゃない。
社会という組合の組合員になった以上、数が減ると困る、という組合の掟は破れないように出来ている。
この組合から脱退するためには、死よりもきつい制裁を越えないといけない。
社会は、ヤクザの組合かなにかなの?
そんなわけで。
こうして私は今日も、家に帰ることを許さぬ人生という名のスーパーで、興味のないコーンフレークの棚や缶詰の棚を見て過ごしている。
時折、新商品の棚をみつけ、興味を引くこともある。
けれど、それを知ったからと言ってどうってことも無い。
それでも帰れないので、スーパーにいるしかないのだ。
以前も言った気がするが、
来世は、虫に転生することを祈るばかりである。
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