だから僕も祈ろうと思う。
物語の終わりをハッピーにするのか、アンハッピーにするのかという問題があって、自分はいままでは普通に書いたらアンハッピーばかりになっていた。
流れで書くと、どうしてもそこで(アンハッピーな状態で)終わってしまう。それを良しとしてずっときていた。僕が書きたいのはそういう話で、書きたくない話を無理して書くことは、生きたくもない人生を生きることに等しいし、行きたくもない目的地を目指すことに等しいし(人生の例えといっしょか)、乗りたくもないタワー・オブ・テラーに乗ることに等しいのだ。(嫌だけど毎回乗っている。ハイタワー三世のインタビューを見るたびに毎回蒼白になる)
僕は、おそらくは、人生に悲観していた。いまは楽観視しているのかといえば、正直にいえばそんなこともないのだけれど、たぶん、だからこそ、物語のなかだけはハッピーであってほしいと思っているのかもしれない。
映画や、小説や、フィクションのほとんどはハッピーで終わる。現実はそうじゃない、と断定することはたやすい。そうじゃないことのほうが多いし、生の最後は全員いっしょなので悲劇といえばこれ以上の悲劇はない。
僕の好きな映画のひとつにマイナーだけど『バリー・リンドン』というのがあって(みんな大好き『時計じかけのオレンジ』のスタンリー・キューブリック作。映像はめっちゃ綺麗なのでおすすめだけど、いかんせん3時間もあって環境映画みたいだ)、その最後に、こういうテロップが流れる。
『金持ちも貧乏も、老いも若きも、いまは同じ、すべてあの世』
もう、みもふたもない。
みもふたもない。大事なことなので2回書きました。
僕らはじつはみもふたもないのだ。これ以上は言ってもせんないので言わないけれど、まじまじと考えると、全員の物語はバリー・リンドンと同じになる。
『人生はいっときの饗宴にすぎない』
この科白は僕がいま思いついたけれど、もしかしたらシェイクスピアとかが言ってたかもしれない。つまり、人生が悲劇であるならば、せめて物語のなかだけはハッピーであってもいいのでは、と僕はうすうす思いはじめているのかもしれない。
ハッピーでいいじゃんね。桃から生まれたら鬼退治だし、竹から生まれたら月帰還だし(これはハッピーなのだろうか)、亀を助けたら老人(これもハッピーなのだろうか)、うーむ、おもいのほかアンハッピーな物語も多いのかもしれない。
いずれにせよ、僕は以前よりも、おそらくは意識的に、ハッピーな結末になるよう努めている気がするのです。物語は、フィクションは、おそらく祈りなんだよね。舞城王太郎の科白を借りれば。言葉は祈りだし、文章は祈りだし、歌も祈りだし、物語も祈りなのだ。
だから僕も祈ろうと思う。せめて、今夜ぐらいは、ぐっすりと眠れますように。あなたも、わたしも、世界中のみんなが。