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始まりの夜
防護服を着た看護師の気配にぼんやりと目が覚める。
鼻にはヒンヤリとする酸素がチューブから送られていた。
左の人差し指には脈と酸素飽和度チェッカーが付けられ、腕には点滴の針が差し込まれている。
ベッドは息苦しさを紛らわせるため、少しだけリクライニングになっていた。
真剣な顔つきで彼ら彼女たちは1時間おきに機械の数値をチェックしている。
その緊張した眼差しから「自分の命が尽きようとしている」のが本能的にわかった。
令和3年6月未明の夜中のこと。
私はコロナで重症肺炎になり都内の病院で集中治療を受けていた。
中等症Ⅱ、簡単に言えばICU(ECMO)一歩手前の状態である。
その1週間ほど前にアルファ型のコロナに感染、1週間経っても熱が43度から下がらなかった。
保健所の指示で都指定のタクシーに連れられCT検査をした。
「一刻も早く入院してください」と切迫した表情で医師に言われた。
なんと左の肺の2割ほどが真っ白だったのである。
その後、一度自宅へと戻り入院のための準備をした。
保健所からは「一時間後にタクシーが迎えにいきますのでそれまでに準備してください」
と言われた。
さて、入院したことなんてなかった私は、パジャマや下着、歯ブラシは用意したものの、そのほかは特に思いつかなかった。
さて、何を持っていけば良いのだろう。。
病院に着くと、すぐにまたCTを撮られた。
肺の一部は石灰化し真っ白になっていた。
酸素飽和度は91%を行ったり来たりしていた。
「治療同意書」を医師から一筆迫られた。
そのころはまだ治療薬がなく、エボラ出血熱用の特効薬と言われる「レムデシビル」を使用するための同意書だった。
本治療薬を使用後いかなる状況になっても病院側は一切責任は取れません
といった内容だった。
つまり「治療がもし効かずに、それどころか副作用で死んでも責任取りません」ということだ。
私は医師に尋ねた。
「もし、同意できなかった場合は?」
即答で医師は答えた。
「こちらでは治療出来かねますので、入院することはできません」
と。
私は、やむなく同意書にサインした。
後にX(Twitter)で知ったことだが、アメリカではレムデシビル(現在名称はベクルリー)は致死率が高く、今では使用できない状態だという。日本では承認が降りて現在も使われている。。
「致死率が50%」と呟かれていたがあながち間違っていないと思う。
なぜなら、退院後に姉から、
「あの日、医師から電話があり『助かる見込みは50%ほどですので覚悟しておいてください』と伝えられた」
と聞かされたからだ。
だが、あの当時の医師を責めるつもりは毛頭ない。
あの人も”板挟み”で選択肢がなかったのだと思うから。
むしろあの時助けてくれた医療従事者の方全員に改めて感謝申し上げたい。
私が今も生きているのは命懸けで献身してくださった皆様のおかげです。
本当にありがとうございました。
こうして「明日も生きて目が覚めるかな」という死の恐怖を抱えながら、私の眠れない夜は始まった。
太陽は蝕まれ闇に包まれた。
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