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僕の吃音歴(学生時代編②)

今回も、「僕の吃音歴」を書いていきます。お付き合いいただけると嬉しいです。


念願の大学入学を果たすも、満たされなさと寂しさを抱えながら学生生活を送っていました。

しかし、そんな学生生活が大きく変わるきっかけが訪れます。


一年次の秋頃のこと、いつものように空きコマを大学の図書館で過ごしていた僕は、カウンターに置かれたある冊子を目にしました。手に取ると、大学の広報誌でした。何気なくページをめくっていくと、

あなたも学生記者になりませんか?

という文字が目に留まりました。その広報誌は学生が取材をして記事を書くというもので、その記者募集の広告でした。

学生記者――。

その単語に、心が揺さぶられました。この頃、僕は小説を読むことが好きなのと同時に、文章を書くことにも興味を持っていました。広報誌の記事を書く。なんだか楽しそう……。

広報誌を持ち帰った僕は、数日間悩んだ末、広報誌を制作しているという大学の広報室を訪ねました。学生記者募集の広告を見たと伝えると、広報誌の編集長だという人を紹介されました。

編集長は、年配の男性で、頭は禿げ上がり、顎髭を生やしていました。眼光鋭く、少し怖い印象を持ちました(元新聞記者だという経歴を知ると、その風貌になんとなく納得しました)。

そんな編集長を前に、僕は恐る恐る自己紹介をしました。そして、緊張の中どもりどもりしながら、文章を書くのに興味があることや、記者をやってみたいことなどを話しました。編集長は僕の話に真剣に耳を傾けてくれ、「一緒に頑張りましょう」と優しく言ってくれました。

こうして、僕は学生記者になりました


他人と関わることに臆病になっていた僕が広報室を訪ねたことは、我ながら勇気のある行動だったと思います。
自分を変えたい。何かに挑戦したい。ずっとそう考えていました。学生生活を、これからの人生を充実させるには、自分が変わらなければならない。そのためには行動を起こさなければならない。その思いが、僕の足を広報室へと向かわせたのでした。


学生記者になったものの、すぐには記者としての活動に踏み出せませんでした。学生記者にはメーリングリストがあり、取材の案件がメールで回ってきます。取材したい案件があれば立候補することになっていました。学内行事のリポートとか、サークルの活動紹介とか、いろいろな案件が来ましたが、その多くは「人」を取材対象としたものでした。

知らない人と会うのは怖い。そもそも吃音があるのに人を取材することなんてできるんだろうか。そんな思いから、取材に立候補することをためらっていました。

学生記者になって一月ほど経ったある日、キャンパス内で偶然編集長と出くわしました。「何かやりたい取材は見つかった?」と尋ねる編集長に、僕はまだ踏ん切りがつかないと素直に話しました。すると編集長は、「俺がついているから心配しなくてもいい。好きに取材して好きに書けばいいよ」と、笑顔で背中を押してくれました。

編集長の言葉に励まされた僕は、初めての取材に立候補しました。それは、学内のハラスメント防止のために取り組む学生団体の活動を紹介するというものでした。

取材は大学内のカフェで行い、団体の代表と副代表に会って話を聞きました。相手は学生でほぼ同い年なのに、ずいぶんと大人に見えました。人生経験の積み重ねでここまで差が出るのかと愕然としたのを覚えています。なぜ団体を立ち上げたのか? どんな活動をしているのか? 活動で心に残っていることはあるか? など事前に用意した質問をしました。

緊張して、話の途中では何度もどもり、ノートにメモを取る手は汗をかき震えていました。それでも、必死に相手の言葉をノートに書き写しました。取材相手は、僕の聞き取りづらい質問にも、明るく、優しく、丁寧に答えてくれました。

初めての取材ということもあり、編集長が同席してくれました。僕が用意していた質問をなんとか聞き終えると、今度は編集長が雑談でもするかのように楽しげに二人と会話を始めました。そのときは気がつきませんでしたが、記事にするのに足りない情報を、編集長は会話の中で全て聞いてくれていたのでした。

取材を終えると、次は原稿の執筆が待っていました。文章を書くことは好きで、毎日日記を書いたりしていたのですが、人に読んでもらうことを前提にきちんとした文章を書くのは中学生の頃の作文以来でした(以前も書きましたが、小中学生の頃は作文が大の苦手で、一二行書くともう鉛筆を置いて投げ出すほどでした)。

書き始めてみたものの、何をどう書けばよいのか、なかなか思い浮かびません。広報誌を手元に置いて参考にしましたが、筆は一向に進みませんでした。まさに原稿との戦いでした。思い通りにならない原稿を前に、何度も投げ出しそうになりました。

やっとの思いで完成した原稿を編集長へ送ると、真っ赤に手直しをされて返ってきました。僕の書いた文はほとんど残っていないほどでした。「初めは書けないのが当たり前だよ」と編集長は言ってくれましたが、自分の書けなさに凹みました。

しかし、(わずかでも)自分の書いた記事が広報誌に載ったときの喜びは、とても大きなものでした。僕の記事が載った広報誌が学内に配布された日は朝から大学へ行って、すぐに広報誌を手に取りました。

「学生記者  文学部一年 廣瀬功一」

自分の署名のある記事を見つけると、そのページをしばらく眺めました。僕の文章が活字になっている……!! 嬉しさのあまり、スマホで紙面を写真に写して母親へ送りました。三、四冊を取ってリュックに入れ、大切に持ち帰りました。そして、家でもまた何度も何度も読み返しました。


初の記者活動は苦労の連続でしたが、大きな充実感と達成感を覚えました。広報室、編集長、取材相手、記事の執筆……。知らない場所へ行き、知らない人に会い、初めてのことを経験する。学生記者の活動を通じて、自分の世界が広がったことを実感しました

そしてまた、文章を綴る喜びと楽しさを知りました。もっといい記事を書きたい。もっといい文章を書きたい。広報誌に載った自分の記事を見て、強くそう思いました。「吃音×文章」の記事でも触れたように、文章を書く楽しさを心から実感できた体験でした――。


今回は、学生生活が大きく動き始めるきっかけとなったエピソードを紹介しました。これ以降、学生記者仲間ができたり、取材を通じて知ったサークルへ入会したりと、学生生活は広がりを見せることになります。

付け加えると、編集長との出会いは、僕の学生生活の中でも最も重要な出来事の一つでした。その後、学生記者の活動に積極的に取り組めたのは編集長のおかげですし、今でも大切にしている考え方や、生きる指針みたいなものを教えてくれたのも編集長でした。そして、運命か、編集長にも吃音がありました。

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