散文ラブレター
(これはある種のトートロジーだが)自然の美しい山の中腹に、まるで抱き合って冬を凌ぐ二匹のキツネのように隣り合わせで建っている2軒の家に僕らはそれぞれ生まれた。
「風に流れる細い髪から窺われる君の横顔が好きなんだ」なんて夜半の月の前で何度だっていえたろうに、すまし込んだセリフを心にとどめたまま、ついぞ君に明け渡せなかった僕の自尊がいつまでも残余している。この自尊と懐羞がいつまでも喉に詰まって剝れない。
君は一人娘で家には祖母(祖父は君の生まれる前に亡くなったという)と両親、叔父一家が暮らしている。一族は代々地主であるが君の家はその分家であって広大な土地を持っていない代わりに豪壮な屋敷に住んでいる。
屋敷は四方を生垣で囲まれてていて、母屋と離れが二棟あり母屋の西にある縁側に面した部分には日本庭園が造られていた。君とその両親は屋敷の北東にあたる場所に住んでいた。その離れは二階建てで十年前君の両親が結婚した時にもとあった蔵を取り壊して建てたものだそうだ。
その一方、僕は神職の家の長男として(君が生まれる十日前に)生まれた。先祖は代々山陰の大きな神社で神職に身を捧げていたのだそうだが、僕の高祖父にあたる人が独りでこの地にやってきて、この地の荒廃した神道信仰を再興したらしい。彼の一族はここに土着し、今も谷を走る川のそばにある神社の宮司を務めている。
僕の家は君のそれとは比べ物にならない、簡潔な2階建ての日本家屋が一棟あるばかりで、祖父母と両親そして僕の5人がぴったり収まって暮らしている。しかしながら、我が家の庭は君の家に比類できる唯一のもので家屋の七、八倍ほどの広さで家から見て南西の方向に拡がっている。この庭は植物学者でもあった祖父が若いころから敷地の周りのほかした田畑を買って少しずつ拵えたものである。庭には日本中の多様な草木が蒼々と繁茂していて、折節の植生が庭を彩っている。
僕と君以外にはこの山に人家はない。この事実は僕の今までの人生の支配的なトピックであった。君を失ってしまったとき、僕の胸に君の切り抜きができてしまうほどに。