魔法の靴を履かせる方法
さっきこの記事を書いた
書いていて想ったことがあった。
スピリチュアルな教えは「結婚生活」とか「子育て」には現実的じゃない、
――と。
心地良いこと、ワクワク、好きなことだけしていたらいいと言う。
心地良くないこと、イヤイヤ、嫌いなことはしなくていいと言う。
そうだろうか。
そう言っている人は「何か」避けていることがあるんじゃないか。
そう想った。
だって結婚生活とか子育てとか嫌なこと、面倒臭いこと、大変だと想う瞬間のほうが多いから。
自分一人だけでイメージングとかしている間はいい。
あなたは@プレアデス星からやってきた祖先の生まれ変わりだ。
とさらっと言えば、そんな気がしてくるからだ。
だが。
そんなことを考えて余韻に浸っているときにギャーギャー子どもが泣いたらどうだろう。どんなに善人な人でもイラっとするんじゃないだろうか。それがふつうだ。
だがイラっとしたり腹を立てた自分を責めたり、ワクワクしない自分じゃダメだと想うとおかしなことになる。
「結婚」という枠組み自体が古い地球の概念です――というスピリチュアル派の固定観念に逆にとらわれていくからだ。
結婚生活もそう。
出逢った→「これは引き寄せ!」と想えている新鮮なうちはいい。しかし次第に毎日顔を合わせていると、それが当たり前のようになってありがたみがなくなって新鮮味が無くなる。するとちょっとしたことでもイラっとすることが起きてくる。
ご飯を食べるかどうか。ゴミを誰が捨てるか。買い物は? 掃除洗濯は? そういうもろもろのことを誰がするか、妻がするにしても毎日毎日だと大概嫌気が差してくる。
あんなに好きな人のためだったら・・・・・・などと想えていたことが義務になり、嫌になり、嫌いな人になっていくからだ。
そうなると嫌いな人と別れればいい――という話になる。嫌いなこと居心地の悪いことはしなくていいという話になるからだ。
まさに冒頭の教えに戻る訳だ。
だがちょっと待った。
好きとか嫌いとかでそんなにカンタンに決めていいのだろうか。嫌いで悩むのは嫌いじゃいけない。やらなきゃいけない。子どもの面倒みないといけない。ご飯作ってあげないといけない。と想うからじゃないのか。
それは「思いやり」じゃないのか。
ぜんぶ外食でいい。ご飯作りたくない。
子どもの面倒見るのきつい。育てたくない。誰かに育ててほしい。
そうなったらどうなるだろう。
もちろん共同生活(コミュニティー)などでそういうやり方をする所もある。じっさい昔は共同生活・大家族で育てていた。
しかしそれにしても「やらなければいけない仕事」というものはあった筈だ。
だからしたくない、やりたくない、言いたくない、ということで済ますわけにはいかないのだ。
ここのところが結婚生活や子育てで一番難しい所だし、スピリチュアルな教えでは概念・イメージだけで使えない理由だ。
好き嫌いは表裏一体
しかしどうだろう・・・・・・。好きと嫌いは紙一重。好きで仕方ないと想っていても嫌いになって別れるし、嫌いと想っていても復活することがある。
要はほんのちょっとしたボタンのかけ違いで好きにも嫌いにもなる。
このことを最初からわかっていれば、イラっとする、嫌いになる、心地良くないということもあり得るとわかる。あっていいと想える。そう想えてくると、嫌なことが面白くなったりする。楽しくなったりする。ケンカしても仲直りできるようになる。そうやって私たちは何年も続けてきた。
ふたりが仕事も夫婦関係も続けられるのは強い絆があるから。ふたりでやって行こうという同志のきずながあるから。だから続けていける。
このことがわかってくると、深いレベルでワクワクしてくる。舞踏会へ行くのが嫌になる気持ちがわかってくる。ワクワクとイヤイヤが共存する。
そうやって魔法の靴を履いてもらって背中を押すような形で愛のエスカレーターに乗って行っていただく。そういうイベントセミナーを今度12月11日(土)に東京で行う。
自分の中のどこが引っかかって自分を止めているか、スピリチュアルな観点から内面をひも解き、かつ現実的な場面ではどういうことが引っかかっているかを現実に則して解いていく――そうすることでスピリチュアルでありながらすごく実践的で腑に落ちるものとなっていく。
今度の場所は東京はハイアットリージェンシー東京の大広間。披露宴やパーティーでも使われる場所だ。たっぷりとぜいたくな空間を使っておこなうのでお越しになる方は楽しみにしておいてほしい。
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