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それは昨日のことだった。

雲ひとつない空を眺めながら、朝、駅を歩いた。すると通勤ラッシュで行き交う急ぎ足の会社員とすれ違った。

あのときも同じ景色だったよね。

初夏を思わせるさわやかな風。その風を肌で感じながら僕は、自転車を走らせていた。大好きなブラジル音楽をソニーの音楽プレーヤーで聴きながら・・・・・・。

だが・・・・・・、あの日から少しずつ変わった。私が苦手とする論理的文章と計算を最も得意とする上司Kが赴任してきたあの日から・・・・・・。

「これからきみたちの上司になるKだ。お世話になると思うよろしく」

飲みが好きで毎日のように後輩と出かけた。少しでも仲良くなり気に入られたいからだ。それは後輩も同じ想いだった。

だが少しずつむしばむ不治の病のように、ふとしたときのまゆをピクリと動かす刺すような目つきは、こちらをドキリとさせた。

「わかっているんかっ!」
「は、はい」

語尾をまるでカッターナイフのように切り取るその言い方は、僕の神経をピリ付かせ、周りを凍らせた。

もしかすると上司は仮面をかぶっているのかもしれない。
なんとなくだがそう直感した。

初めて管理職になるポジション。そのポジションを死守するべくはじめは周りに受け入れてもらおうとする。その一定期間が過ぎていくうちに、徐々に本来の性格が現れてくる。

「あのねぇ、もう何度言ったらわかるんかねぇ。アンタは人の気持ちがわからんのかね」

文章の「、」を打つ位置。「。」で止める場所。一文の前半と後半とが食い違っているなど、逐一指摘された。

20年前。あのときの僕はどうしていいかわからなかった。雲ひとつない青空とさわやかな風を感じながら、当時の僕の朝は、下ばかりうつむき、眺めていたから、どんなに晴れていても、心はどんよりとした曇り空だった。

#創作大賞 。ふと目に留まったnoteのそれは、どんなジャンルでも構わない、体裁も一定のルールさえ守れば、自由でよい。という形式。一般の雑誌選考では考えられない自由さとメディアの多さ、リアルタイムでフィードバックが得られ、一緒にがんばれるコミュニティーの応援体制などいたれり尽くせりだった。

だとすると、どういうジャンル、どういう形式で出すのがいいだろうとふと思った。20年前のあの日、苦しいながらも物語を紡ぐことで救われた、あの実話×小説(実小説を命名)「エレナ婦人の教え」を、ひとりでも多くの人に、いや、いまの人たちに届けたい、そう思った。

それはいわば辻村深月さんの小説を書く動機、あのころの、生きづらかったときの自分に届けたい物語を書きたいというものと同じだ。だとすると、ジャンルは2つ。ファンタジー小説か、お仕事小説か。

しかし私の小説は実話をモチーフにした小説であり、創作小説でもあり、おとぎ話の要素もある。一番は「自分の人生を少しでも良くしたい」という渇望にも似た想いであるから、ほかでは解決できなかった人生の知恵を散りばめた。

すると、駅の景色と20年前の白黒の景色が重なった。

古城のかがみ

それはまるでフィルムノワールのような景色だった。(フィルムノワール:1950年あたりにハリウッドで作られた謎めいた犯罪映画)

現実の景色を切り取りながら、もう一片の景色はどす黒い暗転の世界。ふたつの世界が交互に折り合いながら、共存する。

ふと自分が、書いた続編の物語「エリック優雅なる生活」で描いた古城が目に浮かんできた。

そこでいまの物語の主人公のモチーフが思い付いた。

かがみ光太郎は古城の主だ。

執事と住む古城はほかに誰もいなかった。

そこには1枚の鏡があり、近づくとすっと吸い込まれた。

中に入ると、2階建ての家の小さな部屋だった。そこにはアンティークなテーブルがひとつ置いてあり、テーブルの上には1冊の本があった。

かがみの 辻村深月 孤城

なんだろうこの本は――。きっと忘れられない物語とある。

パラパラとめくると、最初の一文から引っかかった。

「カーテンを閉めた窓の向こうから、移動スーパーの車来た音聞こえる。」

上司Kが僕に指摘していた文の齟齬だ。主語が一文の中に2つある。前者の車は⇒来たへ、後者の音は⇒聞こえるにつながることはわかる。

しかし音と言うのは何を指すのだろうか。車のタイヤ音か。来た気配か。よくはわからない。

イッツァスモールワールドの歌詞が移動スーパーの拡声器から流れたと次の段落を読めばわかる。

だがなぜ、170万部もヒットした本の著者がこうした一文ではじめたのだろう。編集者も指摘しなかったのかな。それともわざとあえてリズムを崩すまいとわかっててしなかったのかな。

男性的な文体ならこう書くのではなかろうか。

「閉めたカーテン。その向こうから懐かしい曲が聞こえた。雑音の混じるスピーカーが奏でる音は、移動スーパーが来たシ・ラ・セ。

部屋にひとりいたあかりはカーテンをさっと開けた。サッシのカギを外し、窓を開けると、その音は、一段と大きくなった。

”せかいじゅう どこだって・・・・・・」

読み進めると、やたらと「、」が多い。必要以上に区切るのは読みやすさを重視するからだろうか。にしても途切れ途切れで「、」で区切られる文は、たくさんのほくろが付いているようで気になった。

それにだ。「もうしかたないわねぇ」と学校に行けない子どもの名前を「こころ」と親が付けるだろうか、とも思った。

明るく前向きに生きようとする親が、「こころ」などという思いやりを持ち、繊細な名前にするだろうか、と。

もちろん作者の意図として、一つひとつ悩む子どもの心情をわかりやすく示すために、あえて「こころ」という名前にしたのかもしれない。

作者のガイドブック本「アナザーサイドオブ辻村深月」やインタビュー記事を読むと、主人公の周辺をていねいに描き、人物像を浮き上がらせることに長けていながら、同時にストレートに表現することを(つまりベタに)恐れないようにしているというコメントがあったからだ。

にしても、僕ならそこまで「、」を多用しない。「こころ」というベタな名前は使わず、「あかり」という名前を使うだろう。「明るく生きてほしい」「世の中の光となるように」という願いだったら、ポジティブな母親でもネガティブな母親でも思いつくネーミングだからだ。

しかしおそらく辻村ワールドを取り巻くひとたちは、そんなことは本質ではないから気にはならないだろう。あくまで本の良さは、情景描写、ストーリー展開、キャラクターの魅力であり、文章の正確性を要求するのは二の次だからだ。

がしかし、それにしても冒頭からの気になる点が、最後までずっと気になり、物語がなかなか頭に入って来なかった。面白いし、子どもにも大人にも童心に帰れる物語であるのはわかるし、わかりやすくユニークな展開であることもわかる。

でもあんなに予定調和的にみんながまとまっていくものだろうか、とも思った。もちろん作者の夢と希望を与える物語にしたいという想いもわかるけれど、にしても皆が一人ひとりあんな風に行くものだろうか、という疑問も残った。

小学生や中学生のミステリー小説や童話、江戸川乱歩シリーズなどをよく読む少年や少女ならやはり、わかりやすく入り込める世界のほうが、私のような読み方をする者が描く世界よりもいいのだろうと思う。

ここはかがみの向こう側の世界なんだ。僕の世界とはやはりどこか違う。そう思ってかがみ光太郎は元の城へと戻って行った。

(著者あとがき)
僕が書くならやはり自然展開型文章を書くであろうと考え、村上春樹さんや辻村深月さんその他の作家の創作スタイル本を購入して来ました。

その中でわかったことは、ハルキストや辻村ワールドを信奉する人たちのすごく多いことです。それはとどのつまり物語が読み手の心をつかんで離さないことを意味します。

どうしたらそんな物語が書けるのだろう。そう思って手にしたのが、『アナザー・サイド・オブ辻村深月』(株式会社KADOKAWA)でした。

これを読めば、執筆動機、執筆スタイル、構想などが手に取るようにわかります。『かがみの孤城』をはじめ、全作品の執筆動機や内容概略も載せてあり、また対談もあってすごく楽しめます。

小学生のとき、親子の読書感想会で話したポプラ社の江戸川乱歩シリーズ、絶賛の声多数の辻村深月さんの謙虚さ、人を大切にする姿勢に敬意を示しつつ、あえて書かせていただきました。失礼をお許しください。

自身の初の創作大賞応募をきっかけに、少しずつ機は熟してきました。これから少しずつUPしていきます。

(引用元:『かがみの孤城』ポプラ社)



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