【熱烈な兄 エピソードⅠ】
私の兄の話である。
まず私は、幼い頃から温厚で、ヤンチャな要素もなく、思春期に反抗時期もなかった。
そして、50歳になろうという今現在も、大きな声や喧嘩や揉め事、そのような類が大の苦手である。
理由はひとつ。 兄の存在だ。
話せば長くなるので、シリーズで兄のことを語ってゆきたいと思う。
兄は、私の7つ上、そう2024年現在、56歳で、母親が違う、いわゆる異母兄弟である。(父は同じだが、10年ほど前に亡くなった)
私らが生まれ育ったのは仁侠の街、北九州市である。
兄の世代は、ツッパリ(今でいう不良?)がモテて、かつ、ナウいと言われていた。
兄は幼い頃から私を可愛がってくれたが、とにかく気性が荒く、小学校高学年頃より、家内で大暴れしていた。もちろん、家内だけでなく、世間でも同じだ。
正義感は強い兄であるが、中学生になってから、その凶暴さと、北九州トレンドに流され、上記のような「ツッパリ」に成り果てた。
北九州がテーマになった「ビーバップハイスクール」や、駄菓子屋のゲーム「熱血硬派くにお君」の元ネタが、うちの兄であるであるという噂もある。(あくまで噂であるが)
というのも、兄は舎弟30人ほどを従え、中一でパンチパーマ、ソリコミはもう先端でつながるのではないかというほど剃り込み、若葉を吸いながら、白ランの洋ランを着ていて、これは噂でなく、事実らしいのであるが、「北九州を統一」していた。
ガタイにも恵まれ、スポーツ万能(特に砲丸投げ)の兄は、とにかく強く、北九州市で兄の縄張りに近づくヤンキーは皆無であった。とにかく器用でスポーツ万能、真面目に過ごせば、プロ野球選手や、何かしらの肉体派の著名人になったに違いないが、残念ながらというか、上記、ビーバップやくにお君の元ネタに成り上がったのである。
兄の通っていた中学校は、比較的に実家から近く、風の向きによっては、「中村**くん、生徒指導室まで来なさい」という放送が2日に1回は聞こえてきた。母も週に1、2度は学校に呼び出されるほど、兄は悪さを働いていた。
学年主任をロープで木に巻きつけメッタ蹴りしたり、全校のガラス230枚程、全てを割って回ったり、攻めてきた他校のツッパリ連中を兄一人で全員残らず半殺しにしていたり、母はその度、謝りに行っていたのを昨日のように覚えている。
現代の陰鬱な不良と違い、兄は正義感が強く、虐められていた眼鏡っ子を庇うため、いじめっ子を近くの川に流した。そして、風向きにより、兄が校内放送で呼びつけられる声が聞こえたものだ。
家でも勿論荒れていた。
我が家は、八幡製鉄が盛んなこともあり、父が経営する鉄工会社も景気が良く、世帯収入は一般のサラリーマンの倍はあったと思う。父は日産セドリックのハイクラスを乗っていたが、なぜか無免許の(中学生の)兄が乗り回し、気がついたらスカートという、車高を低く見せるパーツがついていた。そして、事故を起こし、被害にあった相手を半殺しにした。
それについて、事なかれ主義の父は何も言わなかったが、母は強く叱った。叱った分の60倍、兄は家内で暴れた。「悔しかろうが!」と無茶苦茶な理由で、家の中の壁を殴るは、砲丸を投げ回すは、もう地獄絵図とはこのことか、と思うほどであり、幼い私は、その頃の恐怖が今でも残っており、大きな音がすると怯える日々を暮らしている。
家には、いわゆるマブイ彼女を連れてきて、部屋はタバコとコカコーラの匂い(のちに兄は糖尿となる)、それとマブイ彼女が作った、ダサいクッションが並べられていた。
私の従兄弟がうちに遊びにきた時、何もわかっていない私は、押し入れに入っていた、兄の元彼女のクッションを出して遊び、そのまま放置していたのを、当時のマブイ彼女が見て大泣きしていた。もちろん兄は物凄い表情で私に近づき、「コロスゾ」と言われたこともあった。幼い私に、男女の難しさを教えてくれたのは兄だった。
ある晩、母の親友が帰宅しようとしていたところ、兄が「俺のオンナも車で連れて帰ってくれ」と頼むも、母の親友Mはそれを断った。
その現場にいなかった(事件は玄関だった)私の耳に、ドスっという音と同時に家が揺れたのを覚えている。玄関先でガヤガヤ話し声が聞こえたので、恐る恐る行ってみると、母友人Mの左目の周りに、漫画でしか見たことがない、くっきりとした美しい丸いあざがついていた。もちろん、兄の報復である。
家の中は、不自然な場所に安っぽい絵画が飾られていた。もちろん、兄が鉄拳で開けた穴を隠すためだ。
そのような恐ろしい家庭環境を小学生低学年の私は過ごしたのである。
兄は北九州を統一していた。
つづく