【そもそも、ないあがらせっと、とは?】
ないあがらせっと、表題の問いに対しては、私を中心に、いや、ほとんど私一人のユニットみたいなバンドである。
われわれ、ないあがらせっとは、他の多くのバンドの形態とは、少し(?)違う傾向がある。音楽性は、時期により違うが、ベースとなる部分は、やっぴいえんどやチューリップのようなフォークロックをベースとし、サニーデーサービスやハッピーズ、キリンジのような渋谷系(?)のような要素で作られている。その中心人物、私:中村の独特のエッセンスを注入し、中村本人が作詞・作曲、演奏(いわゆるオケ)の制作、ミックスまで一人でやっている。
バンドは1999年の当初、The国際飯店という3ピースバンドで活動していた。私はボーカルギター、大学の後輩の小野倉氏がベース、紹介で入った中瀬がドラムという、いわゆるサニーデイスタイルでフォーク調のオリジナル曲をエレキでかき鳴らしていた。
2000年ちょうどに、島村楽器の掲示板で求人広告を貼り、メンバー入りした冨永氏、担当は、当時はハモンドオルガンであったが、彼の影響力、プロモーション力は非常に強く、売れるためにはバンド名を変え(大瀧詠一風のないあがらせっととなる)、自主制作版のCD(R)を作成。そのまま、その自主制作版がキンレコードに渡り、キングレコードの傘下、はっぴいえんど等、70年代を牽引した数ある有名バンドが所属していたベルウッドレコードより、あれよあれよという間に、ないあがらせっとの1stアルバム2ndアルバムがリリースされ、名前や政治力を使い、都内タワレコ全店の試聴機に入り、話題のバンドとなった。
中村は大学生の時期、ストーンズを中心としたが、音楽(というよりエンターテインメント)については雑食的であった。特に大学4年の時は、レッチリ、グリーンデイ、清志郎にエレカシ、そして遊びのMTRオリジナルソング作りに勤しんだ。特にエレカシ(当時はブレイク間近で、カシマシと私らは呼んでいた)の宮本氏の大ファンになった。歌うまい、顔がいい、それに加え作詞作曲もできる(当時はそのようなアーティストはたくさんいたのだが、私にとってシンガーソングライターは宮本しかいないと思っていた)男なんて素敵すぎると、宮本氏に大いに傾倒していった。
いざ、自身のオリジナル曲を作ろうと思っても、私は演奏者畑の人間だったので、コードは当然弾けるものの、曲作りについてはド素人であり、大学卒業してからも、試行錯誤で曲を作った。いや、自分のスタイルを模索していたのである。
目移りも多く、ミスチル風の曲、山崎まさよし風の曲など、それこそエレカシ風の曲など、半分以上真似て作っては自身のしっくりくるスタイルを模索した。様々なレコード会社にデモテープを山ほど送り、反応もちょくちょくあり、自信を持ちかけていたが、自分のスタイルが築けないままでいた。そんな中、サニーデイ・サービスを知り、うーん、なんかシックリくる、その後に後輩から「ハッピーズ」というmidiのバンドを聴かされ、これが俺の辿る道だと確信した。(ジョーさんありがとう)
話は前後するが、自身のスタイルが築けないときは、無職なくせに、1年に1曲か2曲しか出来ない年もあった。ハッピーズを聴いて、サニーデイを嗜んで、その後、キリンジたるユニットを知り、口の中でぐちゃぐちゃに噛み砕き、飲み込み、そして吐き出したのが、我ながらの名曲「喫茶太陽」であった。曲が完成したときは、自分のスタイルができたことでガッツポーズをしたのを覚えている。その後、ハッピーズやサニーデイ、彼らが影響を受けたGSやチューリップやはっぴいえんど等を聴いては真似し、今で言う、ないあがらせっとの核となるものが完成した。
冒頭に述べた、「ないあがらせっと」が異色であるというのは、中村自身がカンパケまでし(要は、演奏含めて、すぐにリリースできる状態)、その後、ライブに向け、メンバーがそれをコピーするという形であった。中村のエゴの塊である。特に冨永氏は(現在も)私の作品に傾倒し、私より私の作る楽曲のツボを押さえると同時に、マニア的ファンであった。
ないあがらせっと活動開始時期のルーティンとして、1週間で(実働3日くらい)で1曲を中村が作り、冨永に聴かせ、大評価を得る、それをモチベーションに次の曲を作る、という流れで、雑味はあるが、良作があれよあれよと溜まっていった。客に評価されることなく、冨永を崇拝していた私は、その冨永の絶賛により、音楽性等高まり、若さ所以の、大胆な作品を収録しまくった。その集合体が先述のベルウッドリリース2枚となった。
バンドは中村と冨永のバンド・音楽エゴで動いており、メンバーは著しい入出があった。
そう、私と冨永のエゴや世界観に着いてこれない、また、やらされ仕事で面白くない、という点でバンドを離れていった人は大袈裟ではなく30人以上はいた。
笑い話やラジオ等のネタにしているが、ないあがらせっとは脱退というシステムがなく、一度登録すると、バンドを離れたにしても籍は残るというルールで、2024年現在では、メンバー38人という形をとっている(笑)もちろんジョークだ。
我々、本当に活動時期が非常に短い。結成からは、24年程度が経っているが、バンドとしての活動期間は3年くらいではないだろうか。
メンバーが揃い、ライブが面白くなってから、ダーっと3、4ヶ月と活動するのだが、一人辞めたとかなると、それ以来6〜7年休むことはザラだ。それぞれが別の音楽活動や趣味没頭し、私はぼんやり曲を作っては溜めていた。ぼんやりだけど、使命感を持ってだ。
先日の記事で書いたので割愛させてもらうが、2007年(バンド活動していない時)、ある曲を、魂をこれでもか!という程注ぎ込んで作った曲があった。それを作り上げてから、私は商業音楽作家の道に行き、ないあがらせっとは空中分解していた。時はたち、2021年の夏、タイムカプセルのように開けた曲、そう2007年に作った「グッドサマー」がサニーデイ・サービスの曽我部恵一氏に絶賛され、アンソロジーという形で(解散はしていないのだが)、ないあがらせっとは息を取り戻した。奇跡の再結成だ!(解散はしていないが)
アンソロジーはLP盤でも発売し、なぜか限定500枚が1週間足らずで完売した。しかも、若い子からも支持された。上記「喫茶太陽」も収録されているが、その曲が出来た後に生まれた子たちから評価を得た。これは私たちにとって、非常に未来のある事件であった。
リリースイベントと銘を打ち、1年近く、ライブに励んだが、いつものごとく、1年ちょいでバンドは再々々々々度、活動停止となる。わかりやすい話、中村が天狗になり、私と同じ熱量であるもののみバンドに残るよう言ったものの、メンバーからは総すかんをくらい、ないあがらせっとは中村ひとりに。
昨年、ないあがらせっと5枚目となるオリジナルアルバムの収録を終え、ぼちぼちライブ活動へ。いっときは私、中村寛ひとりで活動する予定だ。冨永が作ってくれた屋号は変えない。ひとりでも、ないあがらせっと、だ。場合により秋口には4人かも知れないし、私一人かもしれない。でも良い。いつだってそうだった。ないあがらせっとはカメレオンのように色を変え続けてきた。
これからも屋号を変える気をはない。
「ないあがらせっと」という冠をかぶって、いろいろ望もうではないか。
ないあがらせっと、不死鳥のように、死んだはずのゴキブリのように。