弱者男性として生きる、自分の選択。
最近、あたまに引っかかるワードに“弱者男性”がある。これはネットスラングが始まりのようで、検索すると弱者男性を扱った書籍もいくつかヒットした。
わたし自身をふり返れば、中年になるのに未婚で彼女はいたためしがなく、福祉系の労働者として働き、薄毛で、HSPな性格のわたしはその範疇の中に入るのだろう。
しかし、それを必ずしも悪いこととは思っておらず、むしろメリットもあると思う。そして自分自身の特質をかえりみて、これまで正直に正しい生き方をしてきたわけで、他人に恥じるようなことは何もない、と思っている。
反対に、結婚生活やマイホームに憧れを持ってるような男もいるかもしれないが、わたしはそういうことに対して冷ややかである。
もちろん生涯の伴侶がいたら羨ましいと思うし、孤独感も紛れるだろうなと思う反面、きっと結婚生活は煩わしく、多くの点で相手に合わせて譲歩しなければならなくなるだろう。それはつまり、自分らしい生き方を送れなくなることを意味する。
ふと想い出すコミックに、真鍋昌平の「闇金ウシジマくん」がある。あの漫画には、たくさんの弱者やあるいは強者が描かれていた。
その中で印象的なのは、丑嶋馨がつぶやくセリフの数々だ。ウシジマくんはよく「女は基本、信用できない」と口ぐせのように述べていた。わたしも同じ考えで、男にとって女性を警戒の対象とみなすのは正しいと思う。
フランス近世の思想家、モンテーニュは女性と結婚について次のように述べていた。
弱者男性というワードがあるなら、反対に強者男性とはどんなものだろうか?
総合商社や外資系金融機関に勤めたり、高年収で性格は積極的で活動的、異性にもよくモテる、というものだろうか?
むしろわたしは、強者男性を突き詰めていくと、それは“サイコパス”のような人間になると思っている。口達者で表層的、利己的で他人を操るのがうまく、道徳心や同情心が欠落したような人間である。いちばん有名な人物を挙げれば、ドナルド・トランプのような人間がそうだと思っている。
わたしはそんな胡散くさい強者人間になろうとするよりも、あくまで自分らしくありたいと思う。最近読んだ古典「老子」には、“柔弱は剛強に打ち勝つ”という文句もあった。そして次のような解説文が記載されていた。
歴史をふり返れば、ブッダやキリストのような聖者たちでさえ、今でいう弱者男性に過ぎなかったのだろうと思います。
ごく世間的で狭い見識で、男を強者であるとか弱者であるとか考えたりしていると、おそらく物事の本質を見失うことでしょう。