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ケアと介護、療養環境を整えるということについて

わたしは入居者の部屋に入るときは、その環境を整えることも念頭におくようにしている。看護学校で教育をうけたとき、そういったことをまず教えられるからだ。
 たとえば、空気がよどんでいると感じれば、窓を開ける。部屋の整頓をざっとする、シーツのシワを伸ばす、室温を調整するとか、そういった当たり前のことだ。

レベルが低い介護施設のなかには、窓を開ける代わりに、「臭いがこもってるなら、消臭スプレーを使って」と指示を出されることがある。これ、なんかおかしくないだろうか? 言ってることが。
 新鮮な空気を取り入れることが大切で、臭いを消すとかは二の次だろうが。見せかけだけ、体裁だけ整えていればそれでいい、という考え方をしていると、こういうおかしなことを平気で口にするようになるのだろう。
 もっとも、窓を開けようにも、多くの介護施設では安全のために?ぜんぶは開放できず、数センチから十数センチくらいしか窓が開かないようになっているのは残念なことである。

なかには判断に迷うこともある。
 たとえば、ベッドの頭側はギャッジアップしたほうがいいのか、それともまっ平らにしておくか。もし呼吸状態が悪かったりしたら、頭を挙げたほうが呼吸が楽になるだろう。ベッドをギャッジアップするときは、体が下へずり下がらないように足側を挙げてから、次に頭側を挙るようにとむかし教えられた。
 また、就寝前は完全に消灯するのか、それとも薄明かりをすこし点けておいたほうがいいのか。もしある程度自立していて、夜中もトイレに頻繁に行くようなら、明かりを点けておいたほうが転倒予防になるかもしれない。しかし、明かりを点けておくことで睡眠が阻害されるかもしれない。

むかし、フローレンス・ナイチンゲールという近代看護学の祖といわれた人がいる。その人は、その著書の「看護覚え書き」のなかで、療養環境を整えることの重要性について力説していた。
 新鮮な空気・光を取り入れること、清潔な水、環境を清潔に保つこと、栄養のある食事をとること、などである。本を読んだことがあるけど、日本語訳がこなれていないせいもあり、まったく読みにくい本ではあった。
 そういえばわたしか看護学生のときは、“戴帽式”という行事があって、そこで”ナイチンゲール誓詞”なんて暗唱させられたものだった。

ナイチンゲールが活躍したのは、クリミア戦争の戦場で、大英帝国の陸軍病院においてであった。トルコのスクタリという地に仮設病院をつくり、戦地から後送されてきた傷病兵たちの看病を行ったのである。
 そこでは、井戸水がコレラに汚染されていて、そのせいで懸命な看護にも関わらず、おびただしい数の兵士たちが亡くなったようである。ナイチンゲールが環境整備の重要性を強調するのは、そうした実体験をふまえてのことだろう。
 そうした逸話を、歴史学者のオーランドー・ファイジズ著「クリミア戦争 上下」(白水社)という本を読んだときに知った。ちなみに、クリミア半島はいまでも戦場になっているのは皮肉なものです。しかも、交戦国は同じロシアである。「歴史はくりかえす」ということだろうか。

現代の時代は、ナイチンゲールが活躍した当時とはまったく様相が違っている。
 たとえば、上下水道がきちんと整備されているから、公衆衛生は劇的に改善されている。このため、コレラのような細菌感染症は劇的に改善した。その一方で、コロナ対策をみてもわかるように、空気感染するウィルス感染症は依然として防ぐのは難しい問題がある。
 当時は、ケアの対象は若い兵士たちで、多くは外傷や感染症が原因で入院していた。一方、現代は高齢者がほとんど大半で、ほぼ全員が慢性的な疾患や障害をいくつも抱えている。

このように見ていくと、じつは看護と介護にはほとんど大きな違いはないように思える。実際、オランダでは看護も介護も区別されておらず、同じ資格・職業として扱われているらしい。“看護介護士”として、同一の資格のなかで、できること・できないことをランク付けして区別してるようである。
 しいていえば、看護とは科学的根拠にもとづいてケアを行うことだろうか。これに対して介護は、それぞれの職人技、経験則でケアを行ってる面がつよい印象である。