かつて、フランス外人部隊に志願したときの話
20代後半のころ、自衛隊をやめ他の公務員試験を目指していたものの不合格となり、他に行く宛もなかった私。
そのときに、以前から憧れてはいたフランスの外人部隊(La legion etrangere)のことが頭をよぎった。いろいろな事情があってあきらめていたのだ。
全世界から、年齢も背景もちがう男たちが集うところ。その国籍は130以上にも上るという。世界的にもよく知られている伝説的な軍隊だが、伝統と規律を重視する過酷な部隊であり、脱走兵が後を絶たないともきいていた。
しかし、最低5年間の兵役期間を満了すれば、フランス市民権もしくはフランスでの長期滞在資格が得られるともきいていた。つまり、日本以外に海外で働き、永住する道がひらけると考えたのだ。
その当時両親と同居していたため、極力悟られないように行動する必要があった。海外に旅行するとだけ伝え、家には置き手紙の便箋を残していった。もう日本には戻らないかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうだった。
本当は夏に行きたかったのだが、日本での採用試験などの関係で遅くなり、2月上旬に行くことになった。
外国語は英語がカタコトならなんとか。フランス語は大学時代に第二外国語で履修はしていたことがあったが、とても実用レベルではない。
航空券の予約は、どうなるかわからないから、帰りの日程を変更できる往復チケットを取ることにした。
まずはシャルル・ド・ゴール空港に到着し、電車を乗り継いでfort de nogentというパリ東部の募兵所へ向かった。
まるで要塞のような建物があって、明らかに軍隊の施設だとわかった。その営門前まで来たものの、この期に及んで志願することに躊躇していた。それから、意を決して自分が志願兵であることを衛兵に告げ、中に入って行った。
そこで、さまざまな所持品検査が行われる。カバンの中から持ち物を一つ一つ取りあげられて、Ce`est quoi ca?(これは何だ?)と部隊の下士官からきかれた。フランス語は当然話せないので、英語ができる候補生が通訳についた。
金品などはそこで部隊に預けられ、その他の荷物はいったん返された。最初の関門は、有効期限内のパスポートを所持してるかどうかであり、ふつうの旅行者なら問題はない。
それから、支給されたジャージに着替え、兵舎のような二段ベッドがならんだ部屋に案内される。空いた時間はfoyerとかいうたまり場みたいなところに集められて、他に何十人といる外人部隊の候補生たちと一緒に暇をもてあました。
テストや面接のために呼び出されることがあったが、べつに大したことはない。私のときには、とりあえず懸垂をやらされて、そこで一回もできないやつはその時点で失格になっているようだった。
ここを無事に通過すると、今度は南仏のAubagneというところに送られることになる。そこが外人部隊の選抜と教育の中心地になってるようだった。
朝早く、バスで駅まで移動し、TGV(フランスの高速鉄道)に乗ってマルセイユまで向かった。切符は当然のことだが、部隊が手配してくれる。
そこで、それまで所持を許されていた私物は没収され、もっと厳格な統制のもとに置かれる感じになる。そこでさまざまなテスト、数回の面接、空いた時間には雑用をやらされることもあった。待機時間の大半は、屋外で過ごすのだが、あろうことか私はそこで風邪を引いてしまい体調を崩してしまうことになった。
ごく一般的な身体検査。ほかに、知能テストがあった。かんたんな問題から複雑な問題へ、制限時間内にパソコンの画面上で解くというものだった。ちゃんと日本語の文章も用意されているのだが、文法がちょっとおかしかった。図形とか計算とかだから、言語はあまり関係なかったけど。
あとは当然、体力テストもあった。私のときは、懸垂、シャトルラン、12分間走で、腕立てや腹筋はたしかやらなかった。
面接は、異なる立場の人により数回はある。口頭でうまく意思疎通できないときは、筆談をしたことがあった。もちろん英語である。
ふと思い出すのが、あるとき女性軍医との面接があった。そこで返答するときに、うかつにも語尾にsirという敬称を使ってしまったが、相手は露骨に嫌な顔をして怒った様子になった。女性の敬称にはsirではなくmaamを使うことを後になって知った。へたな英語は使いたくない。また別のときには、“ゲシュタポ”と呼ばれる情報部門との面接というか尋問があった。相手の軍曹はいかにも嫌な奴という感じだった。
ここまで緊張して気が張り詰めていたけど、なんかもうべつに入隊しなくてもいいとわたしは思えるようになった。しかもオーバーニュに送られてから、わたしはうかつにも風邪を引いてしまったのだ。志願した時期は寒かったし、自衛隊にいたときからあまり体は強くなかった。そして面接の時に、わたしは日本に帰ることをつたない英語で伝えた。
毎朝整列時に、カポラル(伍長)やカポラルシェフ(上級伍長)が大声で聞いてくる。Qui vout parti civil?(市民に戻りたいやつは誰か?)みたいなフランス語だったと思う。しかしこの時点で脱落するやつはいない。わたしも、ここでみんなが見ている前で手を挙げて前に出ることはなかなか出来なかった。せいぜい「パパやママの元にでも帰るのかよ笑?」とコケにされるのが落ちだろうし、なにしろここでは男らしさを重んじるマッチョな世界である。
貧しい国や地域からはるばる志願しに来た人も多い。そういう人たちがわずかなチャンスをかけて外人部隊に入るのはべつにいいだろう。しかし日本のような国から来るのは、またちょっと事情が違う。
外人部隊で5年以上務めて、その先にいったい何があるのか? 終身雇用というところではないから、体力的に限界がきたら辞めなきゃならない、そのあとにどんな仕事につけばいいのか? また、その後日本に戻ることがあったら経歴の空白期間を履歴書にどう書けばいいのか? そういった些細なことが頭の中で引っかかっていた。
フランス外人部隊はふつうの軍隊ではないし、ましてや傭兵部隊ですらない。フランス陸軍が誇るコマンドー部隊であり、世界でもっとも実戦経験の豊富な軍隊のひとつであろう。もし少しでも不安があるなら、止めておいたほうが無難である。そこはよくよく考え直すべきだと思う。もし正規に入隊が決まり5年契約を結んだら、途中で辞めることは困難になる可能性がある。
余談だが、料理に関しては自衛隊駐屯地のほうがちゃんとしてる印象はあった。栄養面のバランスや、献立面でも。というのは、厨房の雑用をやらされたことがあったけど、缶詰とかそういうのばかりという感じはした。主食はいうまでもなく、フランスパンになる。
脱落者は、毎朝の整列時に名前を読み上げられる。私の名前も呼ばれた。所持品と預けた金品を受け取り、マルセイユまでバスで送られた。希望者にはパリまでの電車の切符も配られる。わたしはちょっと観光することにした。
帰りに航空機の予約を取り、それまで暇をつぶして、およそ2週間あまりの私の冒険は終わった。
いまでも、フランス外人部隊のことは憧れている。もし入隊したら、いまとは違った人生になったのだろうか? と思ったりする。親を悲しませた反面、志願したことは自分にとっての個人的な誇りである。しかし、二度と行くことはないだろう。