虎の過日
大きな嵐が地球を覆った時代があった。僕が生まれるよりも前の話だ。僕は次の夏で十五歳になるけれども、空はいつも晴れてばかりで、曇りはおろか嵐なんて一度も見たことがない。だから僕は、その時代を経験した父さんや母さんから嵐の話を聞いて、その様子を想像する。
雲は地面に触れんばかりに低く厚く迫り、地層のように黒く黒く押し固まって地球の全土を覆う。風、雨、時々雹(ひょう)、そして雷が雪崩のように降り注ぐ日々だ。
日常的に嵐を経験していた父さんたちの世代でさえ、その嵐を異常な嵐と見なした。どれだけ性能の良い飛行機で高く飛びあがっても、雲を破ってその外側へ行くことはできなかった。ロケットを除いて。だから人々は次々とロケット造り、そして乗った。ボイジャー、新天地への旅立ちだ。地上に残った僕らの父さんや母さんの世代の中に、そうして雲の向こうへ発ったロケットたちの行く末を知っている人はいない。いつだったか一度だけ、父さんは「私は選ばれなかったんだよ。競争に負けたのさ」と僕に話した。ノアの箱舟は予約で満席だったのかな。それでも、ロケットとは違う方法で嵐を乗り越えた父さんたちのことを、僕は尊敬すべきだと思う。
嵐が去ったあとの地球はひどい有り様だった。ひどかったけれど、美しかった。都会だった場所ならまだしも、高い建物の少ない田舎ともなれば、海面の上へ突き出ているのは骨張った送電線の鉄塔くらいのものだ。陸地はぐんと減り、しかし人もぐんと減ったのでそこはあまり問題にはならなかったらしい。僕が生まれたときには、世界のほとんどが穏やかで澄んだ海と青空に占められていた。ずいぶん少なくなった陸地に立って海を見渡すと、上にも下にも真っ青な景色の中に、ぽつぽつと黒い鉄塔の残骸や電線が浮かぶように取り残されていた。あの鉄塔たちが描くラインに沿って昔は街があったのだと思うと、不思議な気分になる。
冥王代の地球のようだね、と、海を眺めて父さんはよく言う。僕と父さんは、そういう話をしているときは大抵釣りをしている。冥王代っていうのは、原初に限りなく近い時代のこと。カンブリア期とか、そのあたり。そのころ地球にはまだ大陸が1つしかなかったから、大陸以外の他の部分はすべて生まれたての海で満ちていて、海と空と鉄塔しか見えない今の景色とよく似ているに違いないというわけだ。
そんなわけで、僕は釣りをしているとしばしば、冥王代の地球に思いを馳せる。
今日釣りに出たのは僕一人だけだ。近頃は、僕一人でも家族で食べるのに十分な量の魚を釣ることができるようになった。僕たちが暮らしている陸地はここら一帯では一番大きな島で、人も多い。みんな僕のように釣りをしたり、海に沈んでしまった旧時代の道具をサルベージしたりして生活している。僕の家では、釣りはずっと父さんの仕事だった。でも、最近は僕が任されることが増え、父さんはサルベージ隊のほうに加わるようになった。僕は任された仕事はちゃんとやりたいほうだ。家族で食べる分と、近所の人たちにあげる分の魚もついでに釣って、昼過ぎにはクーラーボックスがいっぱいになった。僕はとても満足して、父さんから借りた白い軽トラックにクーラーボックスを乗せ、エンジンをかけた。ガソリン車に乗ることができるのはいつまでだろう。でも、たとえ将来走ることができなくなっても、僕はこのトラックを大事にするだろうと思った。
「あれ」
さあ走り出そうというとき、僕は妙なことに気づいて、車の窓を急いで全開にして運転席から身を乗り出した。
僕は島のほぼ中央にある巨大なアンテナ塔を見上げた。塔のてっぺんに、ひとつ、丸い雲が浮かんでいる。
不思議なことがあるものだ。雲を見るのは久しぶりだった。ずっと晴れてばかりだったから。興味がむくむく沸いて、僕は車を走らせてアンテナ塔へ行ってみることにした。ひび割れだらけのアスファルトをごとごと走り、質素な工具箱にも似た集落を通り抜け、山へ向かった。山道を数十分走り、アンテナ塔の下に着いても、まだふっくらと丸い雲は同じ場所に漂っていた。今日はそこそこ風があるのに。
珍しいもの見たさで来てみたはいいけれど、特にそれ以上なにをしてみたいということもない。塔は錆びていてボロボロだから、上に登ってみるのも危ないように思う。僕はアンテナ塔の下をぐるぐる歩き、色々な角度から雲を眺めた。垂れ下がった電線の間から覗いてみたし、真下から見上げてもみた。残していた缶ジュースを飲みながら缶と雲の大きさを見比べてみたりして、最後にマンホールの上に立って雲を見上げた。
「あれ」
僕は再び言った。雲が消えてしまったからだ。まじまじとアンテナ塔のてっぺんを見つめていると、突然後ろから「よう」と低い声が聞こえて、僕はたいへん驚いて、持っていた缶ジュースを落っことしてしまった。
僕は缶ジュースのことなどすっかり忘れて振り向いた。雲が消えた代わりに僕の後ろに現れたものを、息をするのも忘れて見つめた。
そこにはとても大きな一匹の白い虎が居た。
丸々一分間、僕たちは互いに見つめ合った。
「君は誰?」息の仕方を思い出した僕は言った。
「白い虎だな」白い虎が言った。
僕が両目をぐりぐりさせていると、虎はまた口を開いた。笑っているようだ。
「おいおい、しっかりしてくれよ少年。お前がまじないかけたから俺はここに現れたと思ったが?」
「まじない? してないよ」僕はどうしてか慌てて否定した。
「だが、手順を踏んだだろう」対して虎は余裕綽々という感じで、僕の足元にあるマンホールを見た。
「お前は決められた歩数で決められた道を歩き、最後にそこに立った。それがまじないだ。信じられないって顔だな?」
「それはまあ、そうだよ。そんな風に偶然が重なるなんておかしいもの」
虎はますます楽しそうに笑った。
「偶然などまやかしだ。人が偶然という言葉を使うとき、そこにあるのはただの一本の糸だけだ」
「糸?」
「ああ。糸は便利だぞ。蜘蛛が垂らせば救済、色によっては運命、束ねて緒にすれば誕生、裏表のない円環も編めるし、紐にすれば宇宙すら」
僕が物語の本を沢山読む子供時代を過ごしていなかったら、今頃とっくに「虎だ! 助けて!」と叫んでトラックに乗って逃げ帰っていたに違いない。しかし僕は、その十分に鍛えられた物語的な思考と想像力、そして好奇心に後押しされ、恐怖に打ち勝ち、不思議な話をする利口な虎に一歩ずつ近づいた。
「僕は君に何をすればいいの」
「目的もなく呼び出したのであれば、俺の使い道を、何か考えなくてはならないだろうな」
「僕が君を使うの」
「もちろんだ。術者はお前だ。もしお前が俺に何も命じなければ、俺という力がただ一方向からお前にかかるだけだ。俺という力に潰されないように、お前は俺からかかる力を押し返さなければならない。反力だ。理科の授業で習わなかったか?」
この島にも学校はあるし、僕はそこに通っていた。僕は頷いた。
「僕がもし、君に何も求めなかったらどうなるの」
「均衡が崩れる」虎は短く告げた。「俺もお前も崩れるだろう。世の理が崩れれば、俺もお前もこの世に存在してはいられないだろう」
「じゃあ考えるしかないじゃないか」
「そういうことだよ」
「でも僕、君がどんなことができる虎なのか知らないよ」
「虎っぽいことなら何でもできるさ。お前を乗せて走るとか」
世への残留が掛かっているのだから、僕はすぐにその案に乗った。
「じゃあ、それをお願いするよ。あのアンテナ塔のてっぺんまで登ることはできる?」
「できるよ。俺はとても体が軽いから」
虎は僕を背に乗せた。アンテナ塔を駆け上がり、てっぺんに上った。雲はやっぱり跡形もなくどこかへ消えてしまっていた。気持ちの良い海風が、僕たちの身体から余分なものを奪い去るようにしてごうっと吹き抜けた。太陽がいつもより少しだけ近かった。
「僕の願いを叶えてくれたのに、君はまだここに居るね」しばらく海をぼうっと眺めてから、僕は虎に言った。
「消えるまでは居るよ」と虎は吠えた。声が大きかったので、塔と僕はピリピリ震えた。
「じゃあ、それまでは僕と一緒に釣りをしようか」
「いいよ」と虎が言ったので、僕らは友達になった。
僕が虎と一緒にアンテナ塔から帰ると、島は軽い騒ぎになったが、一カ月もすれば落ち着いた。僕らはすっかり気ままな釣りの相棒同士として皆から慣れ親しまれることになり、虎も皆から撫でてもらったり、力が強いのを頼りにされたりするのが良いようだった。
白い虎は、ただの白い虎ではないだろう、というのが僕の考えだ。僕の知る限り、この虎は食事というものをしない。生き物じゃないのかもしれない。けれど、僕が何度尋ねても、白い虎は自分のことを「白い虎だな」としか言わなかった。
「だが、俺は炎と呼ばれることもあるだろうし、水と呼ばれることもあるだろうな」
いつものように青い海と空、黒い鉄塔を眺めて釣りをしているとき、虎はそう言った。虎のこういう物語的な話し方に僕はすっかり慣れていた。
「火と水は正反対じゃないか」
「対極にあるということは、その二つは同じだということだ。今の地球だって、原初の地球に似てきただろうが?」
「じゃあ、君は炎でもあるし、水でもあるし、虎でもあるの。マンティコアみたいなもの?」
「それは何だ」
「蠍やライオンや人間が合わさった生き物だよ。架空の」
「そうか。そいつの心臓は三つのうちどの種のものなんだろうな」
釣りのとき、僕らは大抵こういう会話と呼べるのかあいまいな会話をした。けれど、僕たちは(おそらく)全く異なる生き物であるから、こういう会話になるもの無理はないのかもしれない。虎は宇宙的な観点から話をすることもあるが、普段は父さんの白い軽トラックに「俺のほうがコイツよりお前を高く運べるのに」と焼きもちを焼いたりもするかわいい虎だ。僕らは今日も釣りをするし、明日も明後日も釣りをしていくのだろう。今のまま続けばいいな、と僕は思う。虎に会う前も同じことを思っていた。今は余計にそう思う。
不思議な虎。アンテナ塔で出会い、消えた不思議な雲に似て、丸くて白い。たまに大声で吠えるのを聞くと体がピリピリする。
虎はいつからあのアンテナ塔に居たのだろう。地球が僕の知る地球になってからだろうか。
異常な嵐はどうして突然止んだのだろう。
嵐はどこへ去ったのだろう。
「あれ」
虎の背に乗せてもらい、島で一番大きなアンテナ塔のてっぺんで、僕は三度言った。
「僕、分かったよ。君の名前」
虎は大声で笑った。電気が走るみたいに体がピリピリする。アンテナ塔から繋がる電線には電気が通っていないはずなのに、千切れた部分から真っ白な電流がほとばしる。僕たちの頭のすぐ上に丸い雲ができた。雲は広がり、雨が降り出し、僕たちの体を叩いた。生まれて初めての雨だった。歓喜に震えるような心地の雨だった。
「そうか!」
虎はまた吠えた。雲の形が変わった。理科で習った、磁力の実験みたいだった。砂鉄を撒いた紙に電線を通すと、砂鉄は規則的な渦模様を描く。その模様と同じように、雲が幾何学的な渦を巻いた。
「だが、その名は口に出さない方がいいぞ少年。命名とは、お前はこういうものであると定義づけることだ。もしもお前がその名前で俺を呼べば、俺はその名にふさわしい働きをしなくてはならなくなる」
「また雨で海をつくる?」
「次は陸など無くなるぞ。地球を原初に進める現象が俺だ」
「なら、やっぱり釣りをして暮らそうか。君は僕の白い虎だ」
僕がそう言った途端、雨と雷は止まった。雲は下から吹きあがって来る強い海風で打ち払われ、空気に残った水滴がきらきらして、青空に虹を描いた。僕は虹というものも初めて見た。虎は笑った。
「その名にふさわしい働きをしよう」