七リーグ靴って知ってるか?
一歩踏み出すだけで七リーグ先までジャンプ出来るっていう、便利な魔法の靴だ。もちろん、そんなものは寝る前の子供に読み聞かせするための絵本や童話の中にしか存在しない。
存在しないはずだった。つい最近まで。そんなデタラメなものは。
だが奴らは作った。そして俺にそれを履かせた。
魔法の七リーグ靴との違いはただひとつ。その靴は時間すら跳躍する。

仕事は単純だ。最も古い時代に辿り着くこと。そして、もし可能なのであれば、そこからさらに先へ進むこと。
我々はどこから来てどこへ向かうのか。我々はどうして生まれたのか。人類が今までずっと求めてきた答えを知るために、彼らは一人の疲れ知らずの人間を過去に送ることにした。
かつて、俺はただの軍人だった。先の大戦でちょっとばかし功績を上げ、国家の英雄として人種を超えてあらゆる人々からの尊敬を集めた。が、長い戦争が終わって国に帰った俺はあっという間に職を失い、故郷には家すら残っていなかった。民族と民族の溝は深く、俺はその時ようやく、人と人が争う戦場の中でしか人と人は同じ価値にはなれないのだと理解した。そこに、彼らが現れた。より良い未来のため、あなたのような人間の力が必要だ、と言った。その言葉は嘘ではなかったが、虚飾に満ちていた。だが俺は結局、彼らの誘いに乗った。決めたのは俺だ。だから、きっと最後までやり遂げられるだろう。
なぜ限られたバックパックの容量を食い潰してまで俺がゼンマイ式のオルゴールを持っていくことにしたのかといえば、簡単な話、俺には基準が必要だったからだ。精神の軸と言い換えても良い。それを自分の外側の世界に頼ることは出来なかった。世界は、この先、あまりにも目まぐるしく変動し続けることになる。長い仕事を狂わずに続けるための秩序を、俺は自分自身の中に構築しなくちゃならなかった。
音楽は、格好の拠り所だった。単音が綴るオーバー・ザ・レインボウ。それは時計よりも正確に時間を計り、歩数を数え、少しの気晴らしとなり、精神に穿たれたくびきになった。
うんざりするほど長い教育プログラムや準備期間を終えて俺はその靴と対面した。いたって普通の登山靴に見えた。彼らは、俺がそれを履いて一歩踏み出した瞬間から、その距離に応じて時間が逆行する、と説明して、俺を玄関から送り出した。俺が見たものを彼らもまた見るために、俺は目玉をひとつくり抜いて彼らの元に置いてきた。だから今、俺の左目には義眼が嵌っている。この目が彼らからのギフトであり、現人類が持ち得る叡智の結晶だ。プロメテウスの炎そのものだ。その目はアンカーボルトのように、俺が踏み出した先の時代に俺を繋ぎ止め、俺が周囲に抱かせるであろう「時代錯誤なよそ者」の印象を綺麗さっぱり払拭した。俺はあらゆる攻撃対象から除外され、その効果は事故や天災にすら適用された。俺は事実上の不死となった。もう飢えも、疲労も、病も、老化も、俺を殺さなかった。

オルゴールを鳴らす。ゼンマイをいっぱいに巻いた状態から、音が止まるまでのあいだ歩き続けると、およそ百年移動する。ちょっと休憩したければ靴を脱ぐ。そしてまた進む。最初はおおよそ歴史の教科書どおりだった。オルゴールが止まる。オルゴールを鳴らす。文明が滅びて興る。オルゴールが止まる。オルゴールを鳴らす。散歩は続く。靴を脱げば、女に声をかけられることもあった。酒呑み友達が出来ることもあった。それぞれの時代でそんな風に一日だけの友人ができていく。歩を進めれば、彼らは赤ん坊になり、母親の腹の中に還り、この世から消える。死に方はバラバラで不平等だが、生まれ方は同じだ。
産声が上がる家の前に花を落とし、オルゴールを鳴らす。

近頃は、さすがに教科書通りとはいかなくなってきた。
ホメロスの詩の時代を通り越した。
著名な古代文明。
人類の大陸移動。
炎と農業革命。
認知革命。
歴史が始まるより前の、人類がまだ他の動物に怯えながら暮らしていた長い長い時間。
あらゆる地形が簡単に姿を変えていく。
生命は地球もろとも退化し、星が落ち、巨大で生臭い生き物が大陸を闊歩した。だが、それらの生き物達は俺がかつて研修ビデオで見た者達とは大幅に異なっていた。彼らは時に、全く未知の何かを感じ取るための感覚器官を持ち、俺達の知らない次元に触れていた。彼らは進化の低域に位置する者などではなく、より……そう、自由で、高度で、豊かだった。種の区別すら曖昧で、本来枝分かれして不可逆であるはずの形質すら、自在に書き換えた。彼らは現実すら好き勝手に変えて遊んでいた。ここには最早、科学と非科学の区別など無かった。彼らが生きた痕跡は何らかの要因があって消えてしまった訳ではないのだ。ずっと目の前にあるものに気づけなかったのは、俺達のほうだった。
カーニバルのパレードを眺めるよう心地で、俺はそれらの、色とりどりの生き物達が踊るように生を謳歌する様相を見ていた。だがやがて、静かになった。植物の時代まで戻ってきたのだ。
やることは変わらない。オルゴールを鳴らし、登山靴で進む。
とうとう、海まで消えた。大気の組成すら変わっていた。苦しみにあえぎ、焼けた鉄板のような真っ赤な大地に立っていてもまだ、目の加護は機能していた。全てが砂のように消え去っていく荒野で、俺は何が残るのかを見ていた。

四十六億年を踏破した。そして見つけた。
全てが死に絶えたあとに残された唯一の者。
原始の、赤色の世界に燦然と起立していた者。

そこにあったのは一本の巨大なアーケオプテリクスだった。
その木は焼けるような焦土に触れ、根付いているようには見えたが、おそらくは、ただの見せかけだった。その木は存在していたが、存在していなかった。いや、この世界の一枚上の層に存在しているかのようだった。
この木が、すべての生物の起源だった。本当の創造主はここに居た。
見ているか、お前達。まだ生きて、そこに居るのか。俺はそっと左目に触れた。オルゴールがひとりでに鳴り始める。
俺は手袋を外し、その母たる幹に触れた。柔らかなざらざらとした感触を指の腹に感じた。木の中で脈動していたのは、養分たる水ではなく、あらゆる叡智の螺旋だった。この宇宙の全てを表すただ一本の統一理論の式だった。それは循環した。あらゆる者が生まれてから死ぬまでの記録があった。俺は理解した。これは啓示だ。
あなたは誰だ、と問いたかったが、喉はとっくにこの熱で潰れていた。だが、俺が触れた箇所から、意思は木に伝わった。木は豊かな大ぶりの葉で、何者でもない、と囁いた。

私は最もありふれた者。
何者にもなれないままここに居るだけの者。
そういうお前はどこから来た。

「四十六億年先の未来から」

お前のような旅人がもう何人もここへ来た。
だが、こうして話ができたのはお前が初めてだ。

木は俺に、どこへ向かうのか、と尋ねた。俺は先へ、と答えた。

俺には何となく、この先に何が待っているのか察しがついた。ここは、この木は、ゴールではない。
虹が本来は円形であるって話を知ってるか?
全てが円の上にある。循環し、元の地点に戻る。俺はただ、その円周を歩いているだけに過ぎない。木がそのことを教えてくれた。
どこまでも過去へ向かうということは、ずっと先の未来に向かうのと同じことだ。
一周分すべてを目にして、故郷に帰ろう。

オルゴールが止まる。
ネジをいっぱいに巻き、オルゴールを鳴らす。


『旅』