「カヤの木と山彦」(清原果耶さんをイメージしたショートショート)
「おーい」
「おーい」
「やっほー」
「やっほー」
「今日も元気だぞー」
「今日も元気だぞー」
私は彼の声を聞くのが楽しみだった。彼は私が生えている山に向かって、毎日のように大きな声をかけてくれた。私は樹齢七百年のカヤの木。山の頂で御神木として崇められていた。「今日も元気そうね」とか返答してあげたいと思っても、私は言葉を発することもできないし、動くこともできない。彼の言葉をそのまま、山が受け止めて、やまびこにして返すことしかできなかった。
彼は時々、私の側まで来てくれた。彼は他の人間とは少し違っていて、御神木の私に対して、何かお願いするわけでもなく、ただ「あなたが少しでも長生きできますように」と祈り、私のことを労わってくれた。
七百年も生きているといろんなことがあった。日照りが続いた年もあれば、大雨が続いた年もあった。その度に人間は私の元へやって来て、「どうか恵みの雨を降らせてください」とか、「どうかお天道さまを導いてください」とか、私の力ではどうすることもできないのに、何かと願い事をされることが多かった。
御神木なのだから、それは仕方ないことだけれど、でも私は本当の神さまとは違う。人間が勝手に決めた神木に過ぎず、実際はただの木だから、何か力があるわけでもない。人間たちを安心させることのできるやさしい言葉をかけてあげることもできないし、田畑を耕すことを手伝えるわけでもない。まして雨を降らせるとか太陽を連れて来るなんて神業はできるわけもなく、自分はただ長生きしている無力な老木だと思っていた。
ある時、毎日のように聞こえていたやまびこの彼の声がぱたりと聞こえなくなった。私の唯一の楽しみと言えば、彼の声を聞くことだったのに。私の側にも来てくれなくなった。代わりに見知らぬ人間が私の元へやって来た。
「どうか山彦(やまひこ)のことを助けてやって下さい。あいつは本当にいい奴なんです。」
その人間は毎日のように、私の元へやって来ては手を合わせて祈っていた。
山彦ってまさかやまびこの彼のこと?彼の身に何かあったの?不安を覚えた私は、満月の夜、御神木ではなく、本当の神さまにお願いした。
「神さま、私は長いこと、ここでじっと生きてきましたが、気になる人間がいます。どうか私のことを彼の元へお導き下さい。」
願い事をされることは多かったけれど、願い事をしたのは七百年生きてきて、この時が初めてだった。
翌朝、目覚めると、私は自分の木の下で若い人間の姿に変わっていた。初めて手足を動かすことができた。「おはよう」と初めて声を出すことができた。私はうれしくなって、山の頂から彼がしていたみたいに「やっほー」と大声をあげた。すると「やっほー」とやまびこが聞こえてきた。
「神さま、ありがとうございます。」
と大きな声であいさつするとやまびこではなく、神さまの声が聞こえてきた。
「カヤの木よ、おまえは七百年もの間、ずっと人間たちの暮らしを支えてきた。人間に貢献し続けているおまえが昨夜、初めて願い事を言った。おまえが気になっている人間の元へ行けるように、人間の姿に変えてやった。自分の力で山彦を助けることができるように、おまえに特別な力を与えておいた。それは…。」
神さまから説明された私は、意を決して彼の元へ向かった。
山を下りて、人間たちが住む街で彼を探し回った。
「山彦さんという方を知りませんか?」
「名字は?名前だけじゃあ、分からないなぁ。」
名字なんて知らなかった。私が知っている彼の特徴はいつも元気でやさしい人というくらいで、なかなか見つけることができなかった。
日が暮れかけた頃、山彦さんのことで私の元へお祈りに来ていた人間を見つけることができた。
「あの、すみません。山彦さんのこと知ってる方ですよね?」
「あぁ、知ってるよ。友だちだから。きみ、山彦の知り合いなの?」
「はい、知り合いと言えば知り合いです。最近見かけないので、どうしているか心配になって探していたんです。」
「そっか…山彦なら、今病院に入院しているんだ。」
「入院?」
「あいつ…おれのことをかばって、事故に遭ってしまって。最近やっと意識は取り戻したんだけど、まだ話せる状態じゃないし、全身強打していて、リハビリしても動けるようになるかどうかは分からないって医者が…。」
その人は半分涙目になりながら、私に説明してくれた。
「そうだったんですか。でも大丈夫です。山彦さんならきっと元気になりますから。」
「そんな…慰めの言葉はいらないよ。きみはあいつのこと見てないから分からないんだ。あいつをあんな状態にしてしまったのは、全部おれのせいなんだ…。おれさえあの時無茶しなければ、山彦はこんなことにならなかったのに。」
「慰めなんかじゃありません。あなたは毎日、山彦さんが回復するのを祈っているでしょ?自分の責任を感じて…。私が何とかしますから、山彦さんが入院している病院を教えてください。」
「何とかするって、きみ、医者か何かなの?」
その人に連れられて、私は彼が入院する病院へ向かった。
「ところできみって山彦とどういう関係?名前は?」
「関係は…やまびこ友だちです。名前は…カヤです。」
関係なんて本当は知らない。私が一方的に彼に興味を抱いていたのだから。
「やまびこ?あぁ、あいつはいつも山に向かって叫んでるって言ってたな。きみもやまびこが好きなんだ。カヤちゃんっていう名前なんだね。」
歩けること、話せるようになったことはうれしかった。自分の足で彼の側に行けるから。でも彼の容態が気になっていた。
「山彦、カヤちゃんって子がお見舞いに来てくれたよ。」
ベッドに寝かされている人間は紛れもなく、あの彼だった。「おーい、やっほー」と元気な声を聞かせてくれた彼とは別人のように静かで、身動きひとつできないまるでカヤの木だった私みたいにじっとそこにただ横になっているだけだったけれど、顔を見ると山彦さんだった。
今、山彦さんは木と同じような状態だから、話せなくても気持ちは痛いほどよく分かった。せっかく話せるようになったのに、会話できないのは悲しいけれど、山彦さんが生きてくれていただけでも十分だ。毎日、元気な声を聞かせてくれた彼。私の元へやって来て、私が長生きできますようにと祈ってくれたこと。今度は私が山彦さんに声をかけてあげる番だと思った。
「山彦さん、カヤです。覚えてますか?私のこと。私はいつもあなたに元気をもらっていました。いつか会いに行きたいって思ってたんです。」
私が彼に話しかけていると、気を遣ったのか、山彦さんの友だちは病室からそっと出て行った。
「いつも元気な声を聞かせてくれてありがとうございます。時々私の元へやって来て、私が長生きできますようにって労わってくれて、ありがとうございます。おかげで、私はこうして元気に生きています。」
薬が効いて眠っている彼は何か応答してくれることはなかったけれど、穏やかな表情を浮かべているように見えた。
「せっかく、人間の姿になれたから、本当はあなたとたくさんおしゃべりして、それから一緒に山へ行って、やまびこなんかしてみたかったけど、それより私には大事な役目があるの。勝手にこんなことをしてしまうのは許してね…。」
そう言って、私は彼の唇に口づけをした。
あの時、神さまは最後にこんなことを言った。
「おまえに特別な力を与えておいた。それはその人間を治癒する力だ。おまえが山彦に口づけすれば、山彦は元通り元気になる。でもその代わり、おまえは消えてしまう。カヤの木も朽ちて死んでしまう。それでも良ければ、その力を使うが良い。」
私は死ぬことなんて怖くなかった。だってもう十分すぎるくらい長生きしたから。七百年も生きて、最後にこうして自由に動いたり話したりできる人間にまでなれたから。でも怖くなかったはずなのに、彼の唇に触れた瞬間、本当はもっと彼と一緒に生きれたらと願ってしまった。元通り、木に戻って動けなくてもいいから、毎日元気になった彼の声を聞いて、それから彼が私の側まで来てくれるのを待つことができたならと七百年にして初めて、「生きたい」と思えた。でもやっぱり自分の命より、山彦さんのことを救うのが本望だと思った。山彦さんと出会っていなければ、もう少し長生きできたかもしれないけれど、山彦さんと出会えたおかげで、退屈な日常に楽しみが生まれたし、彼を待つ喜びも教わった。そしてただじっとしているのではなく、初めて自分の力で動いて、助けたいと思えた。こんな気持ちが自分の中にあるなんて知らなかった。彼の声が聞けてうれしい。彼に会えなくて寂しい…。ときめく気持ちを教えてくれてありがとう、山彦さん。あなたが願ってくれた通り、私は長生きできました。だからどうかあなたも元気で長生きして…。
彼の友だちが病室に戻って来た頃、私は消えていた。
「あれ?カヤちゃん?」
「カヤちゃんって…誰のこと?」
「山彦…おまえしゃべれるのか?」
「しゃべれるも何も、ほら体もこの通り動かせるし。」
山彦さんはすっかり元気な体を取り戻し、友だちや医者を驚かせていた。
「山彦、ごめん、ごめんな。おれのせいで、おまえが事故に遭ってしまって…。」
「別におまえのせいじゃないよ。心配かけて悪かったな。それよりさっき言ってたカヤちゃんって?」
「さっきまでおまえのお見舞いにカヤちゃんって若い子が病室にいたんだよ。」
「そうなんだ。おれさ…さっきまで夢を見ていたんだよ。いつもみたいにやまびこしていたら、知らない女の子がやって来て、一緒にやまびこしたんだ。それから、一緒に山を上って、カヤの木のところまで行ったりして…楽しかったな。」
山彦さんはやさしい微笑みを浮かべて話していた。
「カヤの木か…おれさ、おまえが元気になるようにって毎日御神木…カヤの木の前で願っていたんだ。カヤちゃんって子さ、自分が山彦を助けるとか言ってて…。」
「おれはカヤの木に助けられたのかな。会いたかったな、カヤちゃんって子に。」
「今度、一緒にあのカヤの木の所へ行こう。お礼も言いたいし。」
「そうだな。あれ?これって何だろう…何かの実…」
「それってカヤの実じゃないか?」
神さまが彼の枕元に私の実を残してくれていた。もしも彼がその実を育ててくれたなら、またカヤの木に生まれ変われるかもしれない。彼の側にいられるかもしれない。
山の頂にある御神木として七百年、崇められていたカヤの木が枯れ朽ちて処分されることになった頃、山彦が小さなポットに植えたカヤの実からは小さな新芽が顔を覗かせていた。
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