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渡世風物語~ささやかなこの人生~

 「うぁー雪だ!ちょっと外で遊んで来るね!」
「遠くに行っちゃダメよ。」
「風にとっては、こんなにたくさんの雪は初めてだもんな。」
あの日、俺は両親と三人で北陸にある温泉旅館を訪れていた。俺の人生の中で一番幸せで、一番思い出したくない日。ずっと記憶の奥底にしまい込んでいた。

 「あっ!雪だるまだ!」
俺がその雪だるまに触れようとした瞬間、
「触っちゃダメ!」
と後ろから声が聞こえた。振り向くと俺と同じ歳くらいの女の子が立っていた。
「ゴメン、これってキミの雪だるま?何で触っちゃダメなの?」
「キミじゃなくて私の名前は〇〇。溶けちゃうから触っちゃダメなの。」
その子ははっきり〇〇という名前を言ったはずだけれど、俺の記憶から抜け落ちてしまった。
「そっか、溶けちゃうからダメなんだ。ゴメンね。」
俺が一人で降り積もった雪を慣れない手つきで触っていると、
「私の雪だるまはダメだけど、新しい雪だるま、作ってあげるから。」
そう言って、その子は手際よく雪を丸めると、コロコロ雪の上を転がし始めた。
「こうやって作るのよ。キミ、雪を知らないんでしょ?」
「キミじゃなくて、俺は風(かぜ)って名前だよ。」
「風くんって言うんだ。じゃあ風くんも一緒に雪だるま作ろう。」
俺たちは一緒に雪を転がし始めた。
「風くん、どこから来たの?うちのお客さんでしょ?」
「東京から。こんなにいっぱいの雪は見たことなくて。〇〇ちゃんはどこから来たの?」
「私はこの旅館の子だから。これくらいの雪は珍しくないの。」
そんな会話をしながら、雪だるまを作っていると、びゅーっと風が吹いて
「あっ。」
女の子の長い髪を結っていたリボンが庭木にひっかかってしまった。
「どうしよう…お気に入りのリボンなのに…。」
俺は木登りなんてしたことなかったけれど、今にも泣き出しそうな女の子の顔を見たら、どうしても放っておけなくなって、思わずその木に登り始めてしまった。
「風くん、危ないよ。雪も積もっているし、滑るよ。」
「大丈夫、これくらい平気だから。俺、木登り得意なんだよ。」
六歳の子どもが登るには大きな木だったけれど、大人からすればそれほど大きな木ではなかった気がする。
「もう少しで届きそう…。」
リボンを掴んだ瞬間、安堵したせいか、ドスンと木から落ちてしまった。雪が積もっていたおかげで、衝撃は少なかったけれど、それでも足を少し痛めてしまった。
「風くん、大丈夫?」
「これくらい何でもないよ。それより、はい、リボン。」
「ありがとう。」
枝に引っかかったそのリボンは少しだけ裂けてしまっていたけれど、女の子はうれしそうに受け取ってくれた。
その後、女の子が作ってくれたキレイな形の雪の玉を胴にし、俺が作った少し不格好な雪の玉を顔に合わせて、二人で雪だるまを完成させた。
「雪だるまなんて初めて作ったよ。」
「この枝をさして…」
女の子は二本の枝を拾って来て、雪だるまに手をつけてくれた。そして、
「これはさっきのお礼。」
リボンを雪だるまの手に結んでくれた。
「大切なリボンなんでしょ?いいの?」
「少しの間、雪だるまに貸してあげるだけ。」
女の子はクスっと微笑んだ。

 そうしているうちに、
「風―探したのよ。こんな所にいるなんて。」
「ここは旅館の裏庭だから、勝手に入っちゃダメだよ。」
父さんと母さんが俺たちの元へやって来た。
「あら?お友達になったの?こんにちは。」
「かわいらしいガールフレンドだな。」
「こんにちは、私はここの旅館の子なので、私が風くんをここに連れて来たんです。すみません。」
女の子は俺をかばって、自分が裏庭に招いたように説明してくれた。
「そうだったの。一緒に遊んでくれてありがとう。」
「風、出かけるから、その子にお礼言いなさい。」
「イヤ!まだここで遊んでるから。二人で出かければいいでしょ。」
「わがまま言わないの。風を一人で旅館に置いて出かけるなんてできるわけないでしょ?」
「そうだぞ、せっかく雪国に来たんだから、ドライブしよう。」
「あの…私もまだ風くんと一緒に遊んでいたいので、風くんのことなら大丈夫です。うちでお預かりしますから。」
女の子は妙に大人びた言い方をした。きっと旅館の女将さんの口調を真似していたんだと思う。
「そう?旅館の子が一緒にいてくれるなら、私たちも心強いわ。」
「風、ほんとに父さんたちと一緒に行かなくていいのか?」
「うん、俺、もっと雪遊びしていたいから、ここで留守番してるよ。」
「じゃあ、風のことはあなたにお任せするわね。名前は…」
「〇〇」
「〇〇ちゃん、風のこと、よろしく頼むよ。さすが女将さんの子だけあって、しっかりしてるよな。」
「女将さんにも挨拶して行った方がいいわね。」
「そうだな、じゃあな、風。二時間くらいで戻って来るから。」
「うん、父さんも母さんもゆっくりして来なよ。」
二人が車で出かけていく時も、ビューっと風が吹いていた。

 「やさしそうなお父さんとお母さんがいていいわね。」
「〇〇ちゃんのお父さんやお母さんだってやさしいでしょ?」
「うちのお父さんとお母さんは旅館の仕事で忙しいんだもの。私のことなんて全然構ってくれないの。」
「そうなんだ、旅館の子もいろいろたいへんなんだね。」
俺たちはまた新しい雪だるまを作り始めていた。しばらくすると雪が降り出したので、俺たちは旅館の中に戻った。
「お母さん、あのね、この子が、風くんが私のリボンを木から取ってくれたの。」
「まぁまぁ、〇〇がたいへんお世話になりました。風くん、ありがとうね。お父さんとお母さんがお戻りになられるまで、うちでゆっくりしてね。」
そう言って、女将さんは旅館に隣接している自宅の方へ招いてくれた。
「〇〇、風くんのこと、よろしくね。お母さんは仕事があるから。」
「うん、分かった。」
そうしているうちに、雪と風はどんどん強さを増し、外は吹雪になっていた。

 「風くん、たいへん、お父さんとお母さんが事故に巻き込まれたらしいの。」
女将さんが慌てて戻って来ると、俺にそう告げた。
そこからしばらく俺の記憶は曖昧だ。夜中に皐月(さつき)ばあちゃんが旅館まで俺を迎えに来てくれて、そして父さんと母さんが運ばれた病院に向かって…。女の子が心配そうな表情をして俺を見送ってくれたことだけは覚えている。

 父さんも母さんも死んでしまった。俺は後悔した。あの時、雪だるまなんて放って、父さんと母さんと一緒に出かければ良かったと。そしたら、ひとりぼっちになることもなく、俺も一緒に死ねたかもしれないと。二人ともいなくなってしまうなら、俺だって一緒に死にたかった。

 そしてもうひとつ、後悔する理由があった。車の中から、俺に買ってくれたであろうプレゼントが発見されたのだ。リボンとキレイな包装紙でラッピングされたその中身は「虫たちが入った琥珀のオブジェ」だった。旅館のエントランスに大きな琥珀の置物があって、旅館に入るやいなや、それを見つけた俺は、「これがほしい」と駄々をこねていたのだ。女将さんの話によると、父さんと母さんは出かける間際、琥珀を取り扱っているお店を尋ねたそうだ。息子はもうすぐ小学生になるからお祝いに買ってやりたいと。もしも琥珀の店に行ったことで、帰りが遅くなって吹雪に巻き込まれて事故に遭ってしまったとしたら、両親が亡くなったのは俺のせいだった。俺が、琥珀がほしいなんて言わなければ、二人とも死なずに済んだかもしれない。そもそも、雪が見たいと北陸に行きたがったのも、俺だった。不幸になったのも全部、俺のわがままのせいだと気付くと、俺は何も欲しがってはいけないんだと思うようになった。

 俺は父さんのばあちゃんの家で引き取られることになった。母さんの方のじいちゃん、ばあちゃんは早くに亡くなっていて、もういなかった。父さんの方のじいちゃんも、俺が生まれて間もなく、亡くなってしまっていた。だから、俺が頼れるのは皐月ばあちゃんしかいなかった。

 ばあちゃんの家には古ぼけたオルガンが一台置いてあって、ばあちゃんはよくそのオルガンを弾きながら、歌を歌っていた。
「ラララララ―ララララーララーララララーラララーララララーラララーラララ」
いつも同じ曲を弾いては歌っていた。
「その曲、なんて曲なの?」
「『ささやかなこの人生』って曲だよ。」
「ふーん。歌詞はよく分からないけど、良い曲だね。」
六歳の俺にはまだ理解できない歌詞だったけれど、とても素敵なメロディーだと思った。
「この曲はね、亡くなったおじいちゃんがよく歌っていた歌なの。」
「そうなんだ。じいちゃんが歌っていた歌なんだね。」
ばあちゃんは少しだけ寂しそうに微笑んだ。

 ばあちゃんの影響で、俺もオルガンを弾くようになった。ばあちゃんの家にはそんなにおもちゃなんてなかったし、俺は父さんや母さんを思い出したくないから、二人に買ってもらったおもちゃはダンボールにしまっていた。だから俺にとってオルガンは寂しさを和らげてくれるおもちゃ代わりでもあった。

 小学校に入学すると、それぞれの教室にもオルガンがあった。
休み時間になると、俺はオルガンを弾いて遊んでいた。
「風くん上手―」
「ピアノ習っているの?」
クラスのみんなから、褒められることもあった。
「ピアノは習っていないよ。」
「じゃあ、どこで習ったの?」
「ばあちゃんから教わったんだ。」
本当はピアノを習ってみたかった。でも俺が何かわがままを言えば、ばあちゃんに何か悪いことが起きるんじゃないかと思えて、言い出せなかった。
鍵盤の弾き方は独学だし、ちゃんとピアノを習っているような子たちには敵わなかった。低学年のうちはちやほやされていたけれど、高学年にもなると、俺なんかよりも弾ける子はたくさん現れて、少しくらいオルガンが弾けることは取り柄でも何でもなくなっていた。

 でも六年生の頃…。
「渡世(わたせ)、おまえは音楽の才能あると思うんだ。中学校は音楽コースのある学校に進んだらどうだ?」
なんて、たまたま音楽が専門だった担任の先生から言われて、困ってしまった。
「音楽コースがある中学校なんて考えられません。先生も知ってますよね?俺にはばあちゃんしかいないので、迷惑かけられないんです。」
「たしかに音楽をやろうとしたら、経済的にも負担はかかるけれど、でももしもおまえにやる気があるなら、ばあちゃんに相談してみたらどうかな。先生からも話してみるし。」
本当はとても興味があった。ちゃんと他の子たちのようにピアノを習って、音楽の技術を習得できたら、どんなに楽しいだろうと。でもやっぱり何かをねだることはできなかった。俺が何かを欲しがれば、きっと悪いことが起きてしまうから…。
「すみません、先生。やっぱり俺は普通の中学校へ行きます。音楽なら、学校で学ばなくても、趣味でできればそれでいいので。」
「そうか?残念だな。おまえみたいな奴は将来、音楽家になれそうなんだけどな…。技術的にはまだまだかもしれないけれど、渡世には素晴らしい音楽の感性が備わっている気がするんだ。」
音楽の先生からそう言われただけでも十分うれしかった。幸せだった。だからやっぱり、それ以上を望んではいけないと思った。俺のせいでばあちゃんだけでなく、先生にも何か、わざわいが起きてしまってはいけないと真剣に思った。

 中学生になる少し前、ばあちゃんも病気で亡くなってしまった。音楽コースに行きたいなんて言わなかったし、願わなかったのに、悪いことが起きてしまった。俺はとうとう本物の孤独になってしまった。頼れる大人はひとりもいなくなってしまった。

 俺はばあちゃんの家から引っ越し、児童養護施設で暮らすことになった。本当はばあちゃんの形見のオルガンも施設へ持って行きたかったけれど、大荷物になるため運べず、処分されることになった。別にたいしたオルガンじゃない。古ぼけていたし、音がかすれることもあったし。でも、ばあちゃんと俺にとっては大切な思い出のオルガンだった。だから、手放したくはなかったけれど、中学生になったばかりの俺ではどうすることもできなかった。またここで我儘を言えば、きっとまた悪いことが起きるから、何も言えなかった。

 必要最小限の自分の荷物と、それから、あの日、両親が俺に買ってくれた琥珀のオブジェだけを抱えて、児童養護施設へ向かった。本当は琥珀のオブジェを見るのもつらい。父さんと母さんとあの日を思い出してしまうから…。でも父さんと母さんが俺のために買ってくれた最後のプレゼントだし、それに琥珀の中ではまるで俺たち親子のように三匹の虫たちが寄り添っていたから、蔑ろにはできなかった。太古の昔の虫の家族を俺が大切にしようと思った。父さんや母さん、ばあちゃんには何もできなかった分、せめて自分がその虫たちを見守ろうと思ったのだ。

 施設には誰でも自由に使えるおもちゃや漫画を含めた本、それに楽器類もあり、その中にキーボードがあった。俺は初めて、キーボードに触れてみた。オルガンや学校で触ったことのあるピアノと比べたら、鍵盤は軽くて、弾きやすいと思った。
「何?渡世くんってキーボード弾けるの?」
「ピアノでも習ってたの?すごいね。」
施設の子たちの中にはあまり弾ける子はおらず、小学低学年の頃のように俺はまたこの程度で褒められる立場になっていた。
「ピアノは習ったことないけど、ばあちゃんの家にオルガンがあったから。」
「へぇーそうなんだ。何か弾いて!」
「じゃあ、この曲。」
俺はばあちゃんから教えられた『ささやかなこの人生』という曲を弾きながら、歌った。さすがにこんな古い曲を知っている子はいないだろうと思っていたけれど、
「ラララララ―ララララーララーララララーラララーララララーラララーラララ」
一緒に歌い始めてくれる人がいて驚いた。その人は俺より二歳年上の「藤村空(ふじむらそら)」という施設の先輩だった。
「この曲、知ってる人なんていないと思ってました。」
「『ささやかなこの人生』だろ?死んだ親父がよく歌ってた歌なんだ。」
「そうなんですか、俺はばあちゃんから教えられて…。」
「おまえ、渡世風だっけ?最近施設に来た新人の。音楽の才能あるんじゃない?俺の父親、売れないミュージシャンやってたんだけど、うちの親父より、おまえの方がセンスあるよ。」
「ありがとうございます。藤村さんのお父さんはミュージシャンだったんですか。」
「藤村さんなんて窮屈だから、空でいいよ。親父は俺が小学生の頃に死んでしまったけどさ。形見のギターだけ持って、俺はこの施設に引き取られたんだ。」
「空さんは形見のギター…持って来れたんですね。」
「ほら、これだよ。」
そう言って、空さんはギターを取り出すと、『ささやかなこの人生』を歌い始めた。
「空さんも上手じゃないですか。」
「ずっと親父の演奏聞いてたから、これくらいは弾けるよ。」
「空くんも、風くんも上手!」
「みんなが歌える曲、弾いて!」
特に小さい子たちから、俺たちの演奏は人気だった。みんな孤独を抱えて必死に生きている子たちだったから、兄弟のようであり、本当の家族みたいな存在だった。
ここが自分たちに残された唯一の居場所…。そう認識していたから、居心地よく過ごすためにも、みんなと仲良くならなきゃと思い込んでいた。

 でも、実際は学校と同じで、みんなと仲良くなれるわけでもないし、特に思春期に差し掛かった子の中には反抗的な子たちもいて、のほほんと楽器を弾いて歌っている空さんと俺のことをよく思わない子もいる様子だった。

 ある日、空さんのギターの弦が誰かによって切られてしまっていた。
「空さん、大丈夫ですか?」
「あぁ、弦くらい平気だよ。はり直せば済むし。こういう時のためにバイト代とってあるんだ。」
高校生になった空さんはバイトを始めていた。
「でも、またいたずらされると厄介だから、施設ではあまり弾かないようにするか。風のキーボードも気を付けた方がいいぞ。」
「そうですね、音楽はしばらく控えましょうか。俺の場合は、自分のキーボードではないので、大丈夫ですが…。」
「もう、あれは風のキーボードだって、施設長が言ってたけど?」
空さんが少しおどけて言った。
「そんなわけありませんよ、あれはみんなの楽器なので…。」
「風もさ、なるべく早くバイト始めて、正式に自分の楽器買ったらいいよ。」
「高校生になったら、バイトはするつもりです。でも、楽器を買う余裕なんてないですよ。」
「俺はあと二年で、この施設から出ないといけないから、一人暮らしするためにも、お金は貯めなきゃいけないんだけど、でも楽器とか音楽も諦めきれなくてさ…。」
空さんはちょくちょくCDアルバムなども購入し、音楽にお金をかけていた。
「やっぱり、お父さんみたいにミュージシャン目指しているんですか?」
「そんなわけないよ、俺の場合は趣味だから。でも、風は本気でミュージシャン目指した方がいいよ。」
「ありがとうございます。でも俺も音楽はただの趣味なので…。」
「そうなのか?もったいないよ。何なら、高校は音楽専門の高校に入ったらいいんじゃないか。」
「音楽専門の高校なんて、お金かかるから、無理ですよ。」
小学六年生の頃に言われたように、空さんからも音楽の学校を勧められて、うれしかったけれど、やっぱり諦めざるを得なかった。施設暮らしだし、それに、自分が音楽の道に進みたいと欲を出したら、わざわいが起こるかもしれないと、まだそんな心配をしていた。本当は、わざわいを恐れる気持ちより、音楽の道に進みたいという強い気持ちがなかっただけかもしれない。

 空さんが高校を卒業する年、俺は普通科の高校一年生だった。
「風、今までありがとうな。おまえがいてくれたから、楽しかったよ。」
「こちらこそ、四年間お世話になりました。空さんがいたから、俺も楽しかったです。」
「手紙書くからさ。風がミュージシャンになるの、期待してるから。」
「俺も手紙書きます。ミュージシャンにはなりませんけどね。」

 空さんのお別れ会で俺は『ささやかなこの人生』を演奏した。
「ラララララ―ララララーララーララララーラララーララララーラララーラララ」
俺がキーボードを弾いていると、張り替えた弦が真新しいギターを取り出して、空さんも歌い始めた。
その時ばかりは、かつて空さんのギターにいたずらしたであろう子も泣いていた。別れの時だけはみんなひとつになって家族になれた気がした。

 「風、おまえにこれやるよ。」
別れ際、空さんは俺にプレゼントをくれた。リボンをほどいて、箱を開けてみると、オルガン型のオルゴールが入っていた。
「このメロディーって…何て曲ですか?」
「いつかおまえが言ってた、ばあちゃんの形見のオルガンはさすがに買えないから、代わりに、オルガン型のものを探してさ、『千の風になって』って曲だよ。」
「ありがとうございます。大切にします!『千の風になって』素敵な曲ですね。」
それは両親からもらった琥珀以来、俺にとって大切な宝物になった。

 俺は高校二年生になった。毎日、空さんからの手紙を待っていた。今日も届いていないかとガッカリしたりもした。最初のうちはまだ新生活が始まったばかりで忙しいんだろうと思っていた。でも数ヶ月経っても、半年過ぎても、とうとう一度も手紙は届くことなく、俺は高校三年生になっていた。

 そして自分もまた、児童養護施設を巣立つ時が来ていた。施設なんて結局、仮住まいの場で、結局みんな赤の他人の寄せ集めで、本当の家族になれるわけはないんだと思うようになった。そう思わないと、この先ひとりで生きていけない気がした。いつまでも施設のみんなが家族なんて考えていると、甘えたい気持ちが起こって、一人暮らしなんてできない気がした。だから心を鬼にして、所詮みんな他人だったから、施設を出ることを淋しいなんて思う必要はないんだと自分に言い聞かせた。きっと、空さんもこんな思いをしていたから、一度も手紙をよこさなかったんだろう。俺は、空さんのことを信じられなくなっていた自分をなだめるためにも、俺たちは「本当の家族」ではないから、人生のひとときを共にしただけのストレンジャー同士と思い込むことにした。逆に言えば、本当の家族なら、たとえどんなことがあっても、仲が良くないとしても、例えば冠婚葬祭などでは必ず、顔を合わせることができる。ただ血がつながっているというそれだけの理由で、生涯、縁は途切れないのだ。血縁者のいない俺にはもはや生涯、途切れることのない存在はひとりもいなかった。
 せっかく施設に来て、家族ごっこしてくれる子たちができたというのに、やっぱり俺は孤独だった。あの日から、両親を亡くした時から、ばあちゃんを亡くした日から、俺は最初から孤独だったんだ。

 そんな悲観的な気持ちで施設を後にしようとした時、施設長からキーボードを渡された。「これは風くんにあげるから」と。そして衝撃的な事実を告げられた。「空くんさ、一人暮らしを始めて半年後に、仕事の現場で亡くなったんだ」と…。
えっ、空さんが亡くなった?もうこの世にいないってこと?ほんの数秒前まで独りよがりな考えを展開して悲観に明け暮れていた自分はもういなかった。ただそのウソみたいな、ウソであってほしい話を受け止めきれずに、呆然としていた。
「空くんから、このキーボードは風くんが施設を出る時、あげてほしいって頼まれていたんだ。風くんはミュージシャンになるべき人だからって。決して新しいものではないけれど、良かったら、キミに使ってほしいんだ。」
「ありがとうございます…それで空さんはどこに…。」
「空くんのお父さんが眠っているお墓に埋葬されているよ。場所は×××墓地。今日まで黙っていてゴメンね。キミたちは仲が良かったから、言い出しにくくてね…。他の子たちには教えていないんだ。」
俺は施設を出ると、いただいたキーボードや荷物を一人暮らしを始める部屋に置いて、空さんが眠っているという墓地に向かった。

 藤村家の墓には、十八歳で亡くなった空さんの名前も刻まれていた。信じられなかったけれど、本当に空さんは亡くなってしまっていた。俺が手紙をくれない空さんのことを信じられなくなっている間に、とっくに空さんは死んでしまっていたんだ。
ごめん、空さん、手紙くれないくらいで、信じられないとか、家族なんかじゃなかったなんて思ってしまって。空さんはいつだって、俺のことを気に掛けてくれていて、キーボードのことだって、言い残してくれて、誰よりも俺の味方でいてくれたのに、俺は空さんが亡くなったことさえ知らずに、のうのうと暮らしていた。

 空さん、俺、何年かかるか分からないけど、ミュージシャンになるから。空さんが俺のこと励ましてくれていたのに、俺は何も応えることができなかったから、空さんに届くように、音楽を奏でて、歌いたいって思う。もう空さんと話すことも、手紙を届けることもできないなら、せめて歌を歌って、空さんに俺の音楽を届けたいと思ったよ。俺にはそれくらいしかできないし、そうしなきゃいけないって気付いた。

 空さん、皐月ばあちゃん、それから父さん母さんにも届くように、俺は歌い続けるよ。ミュージシャンになれるように、音楽を続けるよ。約束するから。いつか空さんを驚かせるような大きなライブして、空さんのこと喜ばせるから、見守っていて…。

 俺は空さんが眠るお墓の前で、空さんがプレゼントしてくれたオルゴールの曲『千の風になって』を歌った。
「ララララーララララーラーララーラララララララララー」
千の風になってしまった空さんに届くように、涙を堪えて歌い続けた。

 そして俺は一人暮らしを始めた。アルバイトの傍ら、路上ライブも始めた。ミュージシャンを目指すなら、一人でも多くの人に聞いてもらう必要があると思ったから。でも誰も足を止めてくれる人はいなかった。みんな知らん顔で通り過ぎていく。それでも俺は誰かの耳に届くように、毎晩一生懸命、歌い続けた。

 路上ライブを始めて二年目の冬、長い髪をリボンで結った女性が近づいて来て、
「馬鹿みたい」
と一言、俺に向かって言い放った。どうやら少し酔っているらしい。
なんだ、この女、わざわざそんな言葉、面と向かって言わなくてもいいじゃないか、と俺は内心怒りながらも、あえて演奏は止めなかった。そりゃあ、キーボードも歌も習ったわけじゃないし、全部自己流だから、下手かもしれないけど、でも心は込めて演奏しているつもりだから、馬鹿みたいなんて言わなくてもいいじゃないかと歌い続けているうちにだんだん悲しくなってしまった。そうしているうちに、はらはら粉雪が降り始めた。その年の初雪だった。

 冷えて来たし、今夜はもう帰ろうと、帰り支度を始めると、「馬鹿みたい」女が今度は座り込んで泣き始めた。面倒な酔っ払いだなと無視して帰ろうと思ったけれど、この寒空の下、放置もできない。マフラーを貸してあげることにした。
「冷えて来たから、もうキミも帰りなよ。じゃあね。」
「待って!」
その女性は立ち上がると、俺を呼び止めた。
「ごめんなさい。私、今日、彼氏と別れて、悲しくて淋しくて、ついあなたの演奏に八つ当たりしちゃったの。街角で歌ってるあなたの歌声につい足を止めてしまって…。」
なんだこの子、落ち込んで弱っていただけなのか。
「俺、毎晩この辺でライブしてるから、気が向いたら、また聞きに来てよ。えっと、名前は…」
「倉岡結(くらおかゆい)…結です。」
「結ちゃん、俺の歌に足を止めてくれてありがとう。俺は渡世風。」
「えっ…風…?もしかして…あの時の…風くん?」

 雪がちらつく夜道を帰りながら、俺は心の奥底にしまい込んでいた大切な記憶を紐解き始めていた。長い髪にリボン…雪…そして結という名前…。あの日、俺が両親を失った日、側にいてくれたあの子の名前は…。

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