「世界の約束」と「なりたかった大人」
12月末から、ずっとなりたかった大人について考えていた。そもそも「なりたかった大人」という定義自体が難しくて。今日、改めて志村くんのライブМCをじっくり聞いて、「なりたくなかった大人」になっていく人たちが妙に幸せそうに見えてとか言っていて、私は本当にちゃんと就職したかったのか、結婚したかったのかと考え始めた。たしかに子どもの頃は今くらいの年齢に達していれば、それなりのところに就職できて、家庭も築けているだろうと信じていた。でもそれは「なりたかった大人」なのかとよくよく考えてみれば、そうとばかりも言い切れないということに気付いた。もしも本当にそんな大人になりたいなら、平均的な大人になりたいなら、もっと努力するべきだったし、そう簡単に諦めることもしなかったはずで。厳密に言えば私はなりたいものなんてなかった。
親のせいにはしたくないけれど、父親はまっすぐで熱血な性格で、何でも本気でやれというような人だったから、それに付き合うのがしんどかった。
逆に母親はかなり心配性で石橋を叩いて渡るタイプだから、何をするにも先回りされて、心配されて、それはそれでしんどかった。
別に熱血も心配性も度が過ぎなければ悪いことではないけれど、まぁ父親はエゴの塊みたいな人だったから、というか子どもだったから、何か自分が気に入られないことがあればすぐに怒るし、どんな手段を使っても子どもを自分の都合の良いように躾けようとするし、それがけっこう辛かった。
テレビの件で相談した時だってこんなことを言われた。もしかしたら娘がネットでいろいろ言われてしまうかもしれないけれど、それでも気にならないかと質問してみたら、そんなのまったく気にしないと。自分なんてどんなに努力を重ねても、親の七光りだとか陰口叩かれて、妬まれることはあっても世間から認めてもらったことなんてないから、今さら何を言われても気にならないと。こんな時まで自分の感情優先するのかと少し飽きれた。
今、家族の中には自分の感情だけを優先する人が二人いるから、少々疲れる。自分の気持ちが快適じゃないと満足しない二人がいて大変だ。普通、大人だったら、自分の感情のコントロールくらいできるはずなのに、まぁ二人とも子どもだから、今、不快な気持ちにさせるようなこと言うなとキレることが多い。母親と私はその二人の感情を逆立てないように自分たちの感情押し殺して生きているのだけれど。
うちの話をし出すとキリがないから、これくらいにしておくとして、つまり私は物心ついた時からそんな環境で育っていたから、自分の感情を優先することはなかったし、我慢した方が早いやってすぐ諦めたし、どうせ自分なんてと悲観することが多かった。すぐに空気を読めるようになったし、人の心も読み取れるようになったし、それがたぶん大人びた子どもって思われた一因かもしれない。
親に相談したところで、父親はすぐ怒るし、母親はすぐ心配するし、面倒だから、何かあれば友達に相談した方が楽だった。
身近に心から頼れる大人がいなかったから、自分で解決するしかなかった。
そのうち何かやろうとすることさえ面倒に思えて、夢なんて持てない人間に成長していた。
今でも覚えているのは小学四年生くらいの頃、将来の夢を書く時、「自分に合った仕事を自分で作る」と書いた記憶がある。自分には合う仕事がないと諦めていたのだと思う。無気力というか、具体性がないというか、子どもらしさはなかったかもしれない。
でもまぁ大人になれば自動的に仕事できて、結婚できるのだろうとぼんやり考えていた。別に何が何でもそういう大人になりたいと思っていたのではなく、そんな大人になれたら楽に生きれるだろうなと思っただけで。
高校生の頃、書くことに目覚めて、本を作って、作家になれたらいいななんて思ったこともあるけれど、どうせがんばってもなれるわけないんだろうなと妙に冷めた気持ちで自分を見下していた。
大学に入って、就職活動をする時も何が何でも貴社で働きたいです!という熱意はない人間だったと思う。そんな人間は氷河期じゃなくても、受かるわけがない。いろいろ受けたけれど、すべて落ちてしまった。落ちて当然の人間だった。性格の問題であって、たまたま就職氷河期という時期に重なっただけの話で。
婚活だってそんな感じで、良い人がみつかって、結婚してもらえたらいいなと結婚に憧れ程度の気持ちで、熱心に婚活している人たちには敵うわけもなく、どんどん隅に追いやられていって、知らないうちに脱落してしまった。
そんな時、検診で異常がみつかって、やっと目が覚めた。このまま終わりたくないと、もがくようになった。自分ができること、向いていることは書くことだから、それで生きた証を残してみようと考えた。音楽が好きだから、音楽文を書くようになって、それ以外も童話、短編小説、新聞(エッセイ、持論など)とにかく書けそうなものは手あたり次第書く生活をスタートさせた。そしたらまぁまぁ読んでもらえるようになって、身近な友人たちからも感想をもらえるようになったりして、物書き風生活って楽しいと思えるようになった。企業で働くとか、家庭を築くってことは全然向いていなかったけれど、書くことは本能のように馴染んでいて、この道は間違っていないんじゃないかと思えた。自分が「なりたかった大人」ってこれじゃないかと初めて、なりたいものを見つけられた。
そうこうしているうちに取材の話が舞い込んで、無事に放送されて、これで終わりにするんじゃなくて、これからが正念場だなと最近考えるようになった。これをきっかけにもっと書きまくって、本当に本を作りたいとますます真剣に考え始めた。
富士ファブリックの元メンバーの二人が、志村くんにライブ中、「この人は弁護士になります」、「この人は神主になります」とまるで確定事項みたいに紹介されたように、私も志村くんに後押しされてじゃあ本当に「物書きになります」と宣言したくなった。
漠然として夢じゃなくて、実現させたい夢を見つけた。
と珍しく前向きな気持ちでワクワクしていたら、知人からばっさり指摘された。番組を見たけど、そもそもたいした努力もしないで、自分は不幸だとか誰かから必要とされたいとか甘いことばかり考えているから、人生うまくいかないんだよと。そもそもそんなこと考えないで必死に生きてる人間はたくさんいるしと。私はその言葉にはっとさせられた。たしかにその通りで、本気で夢に向かって努力している人たちと比べたら、まだまだ私の努力なんて努力のうちに入らないし、もっと死に物狂いで書いたり読んだりしなきゃいけないのに、私は心どこかで発狂したくはないから、家族のように感情をコントロールできなくなる人間にはなりたくないから、冷静でいたいから狂うほどの時間、物書き生活をまだできていないのだ。
たまに読んだり聞いたりするけれど、作家や脚本家だって正気じゃいられないくらい自分の作品と向き合ったり、志村くんだって一曲を作り上げるのに努力と苦労を重ねていたらしいから、そういうプロの人たちと比べてしまったら、私の努力はやっぱりまだまだなんだと思わざるを得ない。この程度で物書きになれたら、もっと必死に取り組んでいる人たちから叩かれるに決まっているだろう。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200217-00010001-chugoku-soci
今日、たまたまこんな記事を発見して、あまりにも自分にとってタイムリーな話だったから、読んでしまった。知人が言ってくれたように、氷河期の人たちを甘いと思う人たちがいる一方で、そういう人たちは十分苦しんだから、「心の安全基地」が必要とか書いてあった。私は自分で心の安全基地をみつけた。それはやっぱり書くことで。書いて自分の感情を表に出すことが第一歩なんじゃないかと考えた。
そして知人から教えられたもうひとつの言葉が自分の世界という定義。必要とされたいとか誰かが必要とかっていうのは、自分と他者の世界をずっと共有しようとしているからであって、一緒にいる時は共有してもいいけど、自分ひとりの世界で生きる時間も大切だと。そうして自分の世界で決めた自分の夢に立ち向かっていくこととか、自分で努力していれば、誰かから必要とされたいなんて考え自体なくなると。ここで私ははっと気づいた。「世界の約束」ってこういうことなんじゃないかと。「世界の約束」ってどういうことだと思いますか?と質問された時、私はうまく答えられなかった。難しいです。悩みますと。「世界の約束」違いなんだけど、こういう考え方も一理あるんじゃないかなと。
<世界の約束を知って それなりになって また戻って>
自分の世界と相手の世界、「若者のすべて」においておそらく友達以上恋人未満のような男女二人の関係を考えた時、二人の世界は永遠に続くものじゃなくて、時々共有されるけれど、夏の花火のように一時的なもので、世界が交わったと思っていたのに、結局それぞれの世界にまた戻っていくような、そんな儚い世界が「世界の約束」なんじゃないかと考えた。
そして今日、ヘッセの『少年の日の思い出』という作品を仕事で扱った時、「世界のおきて」という言葉も発見した。悪いことをした友人を前に怒鳴り散らすのではなく、冷めた目で軽蔑することが正義であるという意味合いでの世界のおきて。
志村くんは図書室の本を読破したらしいから、この本も読んでいたのではないかと思う。全然意味は違うのだけど、「世界の約束」と「世界のおきて」については今も考え中。
本当はこういうことを書きたかったのではなく、今日はチャイム音についての文章をまとめたかった。先週ほぼ書いたものに加筆修正を今日明日で終わらせたいところ。
そのために奥田民生とか、パフィーの曲を聞いていた。良い曲だな「Bye Bye」。
ようやく本当のなりたかった大人像をみつけたので、とりあえずこんな感じに書きたいことを書きまくります。
それから新聞もテレビも自分の主張をはっきり言わないといけないから、それが少し苦手かもしれない。私はモヤモヤした曖昧な文章が好きだったりするから。別にはっきりさせなくてもいいことって世の中にはあると思うから。起承転結の結がなくてもいいって柳美里さんも言ってたし。私は
〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉
みたいなもやもやした感情と言葉が好きで、そんなはっきりしない態度で書いても掲載してもらえる音楽文という場所が一番好き。音楽文が「心の安全基地」かもしれない。
なりたかった大人もなりたくなかった大人も一言では片付けられなくて、難しいなと思うこの頃です。
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