イメージが二極化する小さくて大きな存在―ネズミ―
この夏、『パパのくれたおくりもの』を読み返した時、ふと思った。ネズミが登場する絵本は多いのではないかと。もちろんメジャーな動物であるネコやイヌやクマやウサギが登場する絵本は数多く存在するけれど、どちらかと言えばそれほどメジャーではないネズミがどうしてこんなにも絵本に登場するのか疑問になった。
メジャーではないとは言え、ネズミはかなり身近な存在の動物であるとは思う。昔からどこにでもいるし、それこそ民家で人間と共存している生き物だから、例えば海に行かないと会えないイルカやクジラやペンギンなんかと比べたら、会おうと思えばすぐにでも会える身近すぎる動物ではあると思う。
なのに身近であるが故に、人間にとって害のある忌み嫌われる存在になってしまった。穀物など人間の食糧を食べたり、家の土台等をかじったり、フンなどは病気の元にもなるから、人間側からすれば悪さをする厄介な動物と捉えられるようになった。ネズミはただ生きるために必死なだけなのに。
まるでその小動物を戒めるかのように、動物実験でラットが使用されるのは当たり前。人間に害を与えるネズミだから、何をしてもいいかと言わんがばかりに人間は人間のためにラットで実験し続けている…。
その一方、小さな存在であるはずのネズミはなかなか偉大なイメージも与えられている。干支で一番最初の動物は子(ネズミ)だし、昔話『ネズミの嫁入り』においても、ネズミは太陽よりも雲よりも風よりも壁よりもこの世で一番強い存在として描かれている。
不思議なものだ。ネズミってイメージが両極端すぎる。ネズミ捕りで駆除すべき忌々しい存在だったり、ネズミを退治させるためにネコを飼ったり、動物実験で命を粗末にしても大丈夫なやつらと人間の思い通りに命を軽視されたり…いわゆる人間の敵みたいなイメージが先行するわりには、架空の想像の世界になるとなぜか愛くるしいキャラクターに変換されるから不思議だ。
夢の国の世界的英雄のような人気者ミッキーマウスだって、『トムとジェリー』のジェリーだって、愛らしいし、多くの人々から愛されている。
ネズミの絵本で真っ先に思いつく、いわむらかずお先生(※画像は『トガリ山のぼうけん』シリーズのトガリネズミを使用。)の『14ひきシリーズ』のネズミたちも緻密な家で大家族が暮らす小さな世界はまるで小人の世界のようで夢があったし、最初に述べた『パパのくれたおくりもの』の中のネズミたちの暮らしもドールハウスが大好きな私にとっては憧れが詰まった理想的な世界だった。他にもネズミの絵本と言えば、なかえよしを先生の『ねずみくんのチョッキ』シリーズが有名だし、海外の絵本だと『アンジェリーナはバレリーナ』シリーズがあったりする。どの作品においても、ネズミは小さな存在でありながらも、たくましく生き、人間に大きな夢を与えてくれるプラスのイメージがもてる存在なのである。
あれほどリアルでは毛嫌いされているはずの敵であり、脇役であるネズミが、創作になると誰からも好かれる人間の味方のような主人公に変換されているから、その点が他の動物たちを描いた絵本と比べて不思議というか残酷だなと思う。
現実と創造上の差がありすぎて、私にとってネズミのイメージはなかなか定まらない。一言で言い表すことはできないし、人間の勝手な考え方次第で、イメージがころころ変わるから、ネズミってかわいそうな存在だなと哀れにも思えてくる。
そんな一筋縄では語れないイメージを持つネズミを端的に表現した歌がある。
THE BLUE HEARTS 『リンダリンダ』である。
<ドブネズミみたいに美しくなりたい>
<ドブネズミみたいに誰よりもやさしく>
<ドブネズミみたいに何よりもあたたかく>
ドブネズミってネズミと書くよりも汚らしいし、嫌われ者って感じがする。そのドブネズミを<美しい、やさしい、あたたかい>と表現したところがさすが甲本ヒロトさんだと思う。鬼太郎のねずみ男だってどちらかと言えばドブネズミって感じがするけれど、昔、ねずみ男が主役の回を見た時はやさしく温かい存在に描かれていたから、やっぱりネズミは汚れているわけじゃないって思えた。ネズミを勝手に汚れ役にしているのは人間だし。人間の方がよっぽど汚れていると思う。
もう一曲、ネズミで外せない歌がある。SEKAI NO OWARI『イルミネーション』である。
<どんな炎に焼かれてもただ一つ残る色だ>
<汚れたような色だねってそんなに拗ねるなよ>
<全部を混ぜ合わせてただ一つ出来る色だ>
<それ、鼠色だよねって顔をしかめるなよ>
<強いようで弱い でも弱いようで強い君へ贈る色 グレー>
鼠色を一番強くて素敵な色と主役にしてくれたところがさすがセカオワだと思った。グレー色なんて、目立たないし、むしろちょっと薄汚いイメージさえあるけど、この歌を知った時から、主役になれる色だと考え方が変わった。(個人的にはグレー色が好きで、昔からよく着ていたけど。)たしかに何が燃えても最後の最後に残るのは灰、つまり灰色、鼠色だよなと。鼠色って最強じゃんとポジティブに捉えられるようになった。
≪ネズミっていうのは、そんなにきれいなものじゃないんですよね。ゴキブリほどではないかもしれないですけど、あまり好かれる動物ではなかった。あれをシンボルとして続けていき、エンターテインメントとか幻想的なもので固めていくことで、ミッキーマウスってものができたと思うんですよ。≫
(2012年1月号『ROCKIN’ON JAPAN』インタビュー部分より抜粋。)
なんて深瀬くんが語っている通り、何かの象徴に仕立て上げれば、どんな嫌われ者でも、小さな生き物でも、英雄になれるんだなと思う。
逆に考えて、例えばミッキーマウスをネズミ捕りで捕獲できるかという話。人間のために実験に使えるかという話。全ネズミが世界的人気者のミッキーマウスだったら、人間は何も手出しできないだろう。
本当はドブネズミも素のままでミッキーマウスのようなステータスを築けたらいいのになと考えてしまう。自分がドブネズミみたいな立場で生きているせいかもしれないけど、汚らわしい自分のままで愛されキャラになれたらいいのにと。
素のネズミも夢の国でみんなからちやほやされる存在に、絵本の中で主役になれたらなと考えてしまう。
甲本ヒロトさんは汚らしいままのドブネズミを美しい存在として捉えてくれた。
深瀬くんは薄汚れた鼠色にイルミネーションの光を当ててくれて、幻想というか魔法の力のようなものでネズミ色に輝きを与えてくれた。
私もネズミを自分なりに捉え直して、自分らしいネズミ像を作り上げて、いつか作品の中の主役に抜擢しようと思いついた。たぶん深瀬くんの捉え方に近くて、素のままのネズミをファンタジーの力を借りて、ヒーローにしたいんだけど、でも完全なファンタジー作品よりも、ノンフィクションに近いフィクションも捨てがたいので、実験用ラットが人間になって人間に復讐しようと企てるものの、人間を好きになってしまうみたいな、最終的にネズミに戻って人間に命を捧げるみたいな結局、ネズミはネズミなんだみたいな夢の欠片も感じられない話を書くかもしれない。
そんな夢のない話を考えつつ、シルバニアのかわいらしいマシュマロネズミを飾っていたりもする。自分ってけっこうシビアなことを考えたりするわりに、ふわふわした夢かわいいもので部屋を固めているから、おかしな人間だなと思う。自分の角とか牙を隠したいのかもしれない。刺々しい心をファンタジーでごまかしているのかもしれない。
ところでネズミは永遠に歯が伸び続けるらしく、だから歯を削るために硬い物をかじる習性があるらしい。歯を放置すると、伸びすぎて口がふさがって食べられなくなり、死んでしまうらしい。ネズミもなかなか苦労しながら生きているんだなと。
私も今、その歯に苦しめられていて、いよいよ埋伏親不知の抜歯が近付いている。しばらく痛むんだろうなと考えると、憂鬱になるけれど、ネズミのおかげで新しい音楽文を思いついて書き始めているから、がんばって早く治そうと思う。10月中には投稿できるように、少しずつ下書きしたい。10月は深瀬くんの誕生月だしタイミング良さそう。
今回書いたネズミnoteは次作音楽文の序章の序章に過ぎない…。最後に『スパークル』登場。
<昨日までは序章の序章で 飛ばし読みでいいから ここからが僕だよ>
このネズミ記事は飛ばし読みで良いので、10月のネズミ音楽文こそ読んでもらえたらうれしいです。今までで一番力が入りました。ずっと書きたかった内容を1万字以内にまとめるのに今必死です。
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