パピコの季節と母心
8月5日はパピコの日だそうです。パピコは1袋に2本入っているので、誰かとシェアしやすいアイスです。むしろ誰かと一緒に食べるためのアイスにも思えます。
若い頃、パピコは彼(男)と一緒に分け合って食べたいよねと友人と話した記憶があります。残念なことに私はそれを実現できませんでした。
あれからもうだいぶ経ちますが、40歳になった今となれば、何をするにも彼ではなく、子供と一緒に経験してみたかったという思いが募ります。「おやすみ」と言って一緒に眠って、「おはよう」と一緒に起きてみたかったとか、手をつないで散歩してみたかったとか、「今日のお母さんのカレー、まずいよ」なんてケチつけられながら、一緒にご飯を食べてみたかったとか…。暑い夏になったら、パピコを子供と二人で楽しみたかったと想像してしまいます。子供のいない私にとっては、夢の夢の話で、彼とシェアするより、ありえない話ですが…。というか彼もいない、独女ですが…。
母性のような親心に目覚めた今年、一人でパピコを口に咥えていたら、ふと中学国語の教科書にも掲載されていた立原えりかさんの「アイスキャンデー売り」という話を思い出しました。夏休みになると決まった時間に白とブルーとピンクのアイスキャンデーを自転車に乗せて売りにやって来る女の人がいました。客の子供たちがいなくなると、三つのアイスキャンデーを地面に置いて、しばらくその場にしゃがみ込んだ後に帰るという不思議な習慣を持つアイスキャンデー売りのおばさんでした。彼女の事情を知る近所のおばあさんが、アイスキャンデー売りの彼女はその場所で三人の子供たちを空襲で亡くしたことを教えてくれました。それを知った子供たちは「幽霊が出るぞ」とふざけで幽霊ごっこをし始めました。夢中で幽霊ごっこをしていると、そこへアイスキャンデー売りがやって来て、子供たちは叱られるのを覚悟しましたが、「幽霊になって、会いに来てくれるといいんだけどね。」と言って立ち去りました。それきり、アイスキャンデー売りはその場所に来ることはなくなったという切ない話です。
アイスキャンデー売りは40~50歳ほどの女の人と書かれており、彼女と同年代になった今なら、彼女の気持ちがよく分かります。本当に愛しい存在なら、幽霊だとしても怖くないと思うし、どうにかして会いたいと願うと思うからです。幽霊よりも、人を傷つけると知らずに無邪気にふざけながら生きている子供たちの方が怖いし、命を失い悲しい思いをする人が増える可能性の高い、戦争を引き起こしてしまう大人たちの方が恐ろしいです。生きている人間ほど怖いものはありません。もしも幽霊が本当に存在するとして、幽霊なんて成仏できずに彷徨って佇んでいるだけで、何も悪さはしないと思います。生きている人間が一方的に恐ろしいものと捉え、怖がっているだけで、幽霊と呼ばれる亡くなった人たちは脅威ではありません。私も亡くなった人たちの中に、会いたい人はいるから、見えるものなら、見たいし、幽霊でもいいから会いたいと願ってしまいます。知らない幽霊は少し怖いかもしれないけれど、知っている人の幽霊なら、会いたいです。本当に。
もう一つ、母心を考えてしまう教科書に掲載された戦争の物語があります。山川方夫さんの「夏の葬列」という短編小説です。主人公の「彼」は小学生の頃、疎開した経験があり、ある日、敵の小型機と遭遇し、逃げようとしていた所に「ヒロ子さん」という白い服を着た女の子がやって来て、「彼」をかばおうとしました。しかし白い服は絶好の目標になってしまいます。彼女と一緒にいたら、目立って撃たれて死んでしまうと考えた「彼」は、とっさにヒロ子さんを全力で突き飛ばし、彼女の善意を無にしました。一人になったヒロ子さんは銃撃で死んでしまい、娘が死んだことで精神を病んだ母親は自殺してしまったことを「彼」は十数年後の夏に疎開先をたまたま訪れ、葬列を目撃したことにより知りました。二人の死の責任はすべて自分自身にあり、もはや逃げ場はないと彼は悟るのでした。
というような内容で途方もなく暗い話ですが、母親というものは、子供が死んでしまうと、精神を病んで自殺してしまうほど、愛情が強い人もいて、寂しい存在だなと思います。子供を思いやる親心が重くて、うざいと思ってしまうこともあったけれど、40歳になり、子供がほしかったと考えるようになると、親心が分かるようになりました。子供のためなら、気が狂う場合もあるし、精神は病むし、傍から見れば気持ち悪いと思われても仕方ないほど、子供のことを考えてしまうものだと気づきました。子を持つ親って我が子を思う気持ちが強いほど、気持ち悪くもなれるし、ある意味、自己中にもなれると。自分のことより、子供のことを考えてしまうし、何なら自分の寿命を子供に分けてあげたい、自分より生きてほしいと願うものだと知りました。だから娘が死んでしまって発狂して、死んでしまったヒロ子さんの母親の気持ちも分かります。
作中では二人の死は「彼」の責任と描かれていますが、本当の責任は彼にはなく、戦争を引き起こした大人たちにあります。まだ小学生だった彼が、ヒロ子さんという格好の銃撃対象になる白い服の女の子よりも、自分の命を優先するのは当然ですし、ただ死にたくないと自分の命を守っただけです。彼女を殺すつもりなんてなかったのです。突き飛ばしたのは自分だから、彼女を殺してしまったのは自分だと自責の念に駆られてしまいますが、本当に彼女を殺したのは敵の小型機であり、戦争という怪物の仕業です。先程の「アイスキャンデー売り」でも少し話しましたが、戦争をも引き起こしてしまう、生きている大人ほど恐ろしいものはありません。戦争や戦争によって負った消えることのない傷は子供たちのせいではありません。空襲で子供を亡くしたアイスキャンデー売りの前で幽霊ごっこをしてしまった子供も、自分の身を守るため、ヒロ子さんを突き飛ばしてしまった小学生の「彼」も、悪意や悪気はないのです。彼ら子供たちも二人の母親たちと同じく、戦争の犠牲者です。戦争は終わった後に新たに生み出す傷や痛みもあり、終戦しても、傷つく人々が増えるところに恐ろしさがあります。戦争自体が終わっても、アイスキャンデー売りを傷つけてしまう行為をしてしまった子供たちも心に傷を負ってしまったし、終戦後、自殺し亡くなってしまう母親もいるし、それを自分のせいだと後悔する「彼」もいるのです。戦争は終わればいいというものではなく、終わっても傷は広がる一方なので、そもそも戦争を起こさないことが大切だと思います。今のウクライナのように、たとえ戦いが終わっても、失われた命が生き返ることはないし、奪われた場所も完全に元通りに戻ることはないでしょう。それをウクライナの人たちはよく分かっているし、だからせめてこれ以上、何も失いたくないと思っているはずです。失ったもののすべては簡単に取り戻せるものではないから…。
話が少し逸れてしまいましたが、パピコを食べ、「アイスキャンデー売り」という話をふと思い出し、そこから戦時中、戦後の母心を考えているうちに、「夏の葬列」という残酷な物語も思い出したということです。
母性を持つ人はたぶん自分の心を持て余すほどで、母性に振り回されながら生きていると思います。子供がいなくなっても、子供を失っても、一度母親になってしまったら、母性は簡単には消えないもので、一生残るから、フィクションの世界においても、悲しい思いやつらい思いをする母親は後を絶たないのだと思います。
戦地に我が子を送り出す母親の複雑な心境は計り知れません。命の危険を伴う場所に子供を送り出すことになる戦争が起きない世界になることを祈りつつ、私は今日もパピコを食べます。8月5日はパピコの日ですが、8月と言えば15日に終戦記念日を迎えます。2022年は終戦から77年だそうです。77年前に日本では戦争が終わり、二度と戦争を起こさないと決めたから、パピコなどアイスも自由に食べられる平和な暮らしを送ることができるようになりました。しかし戦争はなくても、虐待などでアイスやお菓子はおろか、まともに食べ物を口にすることもできない子供たちがいるのも事実です。暑い中、家庭内で起きる内戦とも言える密かな戦いの中、命の危険にさらされながら、必死に生き延びようとしている子供たちも少なからずいると思うと、呑気に一人でパピコを頬張っている自分に何かできることはないだろうかと考えてしまいます。一見、平和に見える日本でも過酷な状況で生きざるを得ない子供たちにパピコを届けられるアイスキャンデー配りのおばさんになれたらと思うのです。
「パピコをどうぞ。」
暑い中、親に放置されていた子に私はパピコの袋を開けてあげました。
「ありがとう、おばさん。ずっと喉かわいていたんだ。ぼく…おばさんの子供だったら良かったのにな。おばさんにも1本あげるよ。」
その子はパピコを頬張りながら、片割れのパピコを私に差し出しました。
「ありがとう。おばさんは大丈夫だから、2本とも食べていいのよ。」
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