細野豪志『東電福島原発事故 自己調査報告』を読んで考えたこと
『東電福島原発事故 自己調査報告』(元原発事故収束担当大臣・細野豪志著、開沼博編)を読みました。
初代原子力規制委員会委員長の田中俊一さんや元福島県立医科大学の内分泌代謝専門医の緑川早苗さんら専門家や行政を司った6人、それから前大熊町長の渡辺利綱さんはじめ被災地の現場で体を張ってきた6人、計12人の当事者と、細野豪志代議士との対話集です。341ページもありましたが、一気に通読できる内容にまとまっていました。
3.11から10年が近づく中、取材や旅行で足を運ぶことはあっても被災地のこと、復興のこと、とりわけ福島原発事故からの再興について十分に考えてきたとは言いがたいなと、はずかしい気持ちをまじえつつ省みます。そんな私が、この10年を振り返るのに「ぜひ読みたい」と思う一冊でした。
細野さんは民主党政権の終焉後、希望の党騒動、そして自民党二階派入りなど変転を経験されれていますが、一貫して、原発被災地の福島に関わり続けておられたことには信をおきたいと感じていました。自分のように、いつも被災地に足を運ぶことができるわけではない国民の代表として、被災地にあたってくれるならたのもしい。
本書でも地震の年の夏に地元・静岡にかえると、支援者から「静岡に戻る時間があったら福島に行ってくれ。便利な生活ができたのは福島のおかげだ。福島のために働いてくれ」と言われたという記述があり、細野さんの支援者の方に私も共感を抱きました。そういう声を背に受けつつなのでしょうね。細野さんが現場の当事者の方々と対峙してきた感じも伝わってきます。
もう一つ、本書に説得力を加えているのは、危機発生当初の政策決定の当事者ないしその現場責任者であった細野さんが、自ら携わった決定について「本当にあれでよかったのか」と悩みつつこの10年を当事者と振り返っているところです。
例えば当時、民主党政権は福島県の大規模除染事業の基準めぐって「年間被爆量1ミリシーベルトを目指す」としました。年間20mSvという校庭利用の暫定基準に対し、東京大学の小佐古敏荘氏が「自分の子どもはそういう目にあわせられない」と涙して内閣参与を辞職したりしたために「20ミリシーベルトは危険」「1ミリでないとダメ」という世論が高まった。安全を重視する福島県の意向を重んじるかたちでの政府の決定でした。
ただこれが高すぎるハードルとなり、「除染できていないのに帰還できない」という心理が住民に働き、帰還の遅れが復興の遅れにつながった、と、細野さんは振り返ります。
「あの時、1ミリシーベルトという除染の目標を明記しない方法はなかったか」
そんな自問自答を記し、低リスクの土壌については積極的に再利用を進めるよう提言するのです。このほかにも「海外で海洋放出されているトリチウムの濃度などをデータで示しつつ原発サイトにある処理水の海洋放出を実行すべきであること」「食品中の放射性物質の基準値を国際基準に合わせて引き下げること」ーーなどを提唱していて、こうした一つひとつが福島の復興を後押しする具体的な提言になっています。
適否については、風評を懸念する地元からの反応もあるでしょうが、むしろ地元を後押しするために必要な具体策は、このようにリスクときちんと向き合う姿勢がなければできないし、将来のため、泥をかぶるにきまっているこうした提言は、政治家がなすべきもっとも重要な仕事に違いありません。
チェルノブイリの経験に参照して38万人の子供たちを対象に始まった甲状腺検査についても、時間とともに科学的な知見の蓄積によって、前に進める道はもう見えていたこと、それが不安を強調する一部報道によって封じられてきたことも本書は指摘しています。専門医である緑川さんは対話の中でこう述べています。
「チェルノブイリで報告されていた子供の甲状腺がんに対する懸念というのは、特に小さく、影響を無視できる程度だったことがわかってきました。それからは被爆のリスクは考えなくてよいと私たちは認識しました」
「2011年の検査開始時点ではあまり見られなかったものの、2014年くらいからは甲状腺がんというのは『健常者に健診をすることで、かえってデメリットを引き起こす過剰診断が起こる」との指摘が多くみられるようになってきています」
もともと甲状腺がんは予後がよく、がんとはいっても健康や命にかかわることが非常にすくないため、症状が出てから病院で治療しても、それで治るそうです。
福島の事故がなければ、わるさをしていないがんは、発見もされず、発見されないから治療もされないで一生を終えるものも相当数あった。ところが大規模なスクリーニングが始まったことで、無症候のものまで拾い上げてしまう。がんがあると摘示されれば不安を感じる子や親は当然手術を選択したくなりますし、そのために周囲からの視線にもさらされる、痕跡が残るほか、薬を飲み続けなければいけない--。
ちなみに、国連科学委員会は線量の低さから「福島県でチェルノブイリ原発事故の時のように、多数の放射線誘発甲状腺がんが発生すると考える必要はない」としています(http://www.unscear.org/unscear/en/publications/2013_1.html )。
検査は任意なのに、実際にはその申請の回収が学校で行われるなどすることで、結局、みんな検査を受ける。日本ではどうしても同調圧力が働きます。
がんといえば「早期発見・早期診断」がいいに決まっている、と考えがちです。しかしただただ検査を広げると、むしろ住民に必要のない負担を強いるという矛盾した効果を生む。
これは、どこか、今の新型コロナに似ています。コロナでは、無症状病原体保有者を見つけても、結局は安静にしておいてもらうしかない。だから有症状の人、リスクが高い人への検査にフォーカスしていくのが得策とされています。
コロナで厚労省が検査数を抑えたのは、検査数に限界があることを前提に、病床等の逼迫をおさえることが目的でした。そこは甲状腺がんとは違うとしても、共通していることもある。
それはリスクゼロはありえない、という意識の大切さです。リスクは小さい方がいいに決まっていますが、病気リスクを下げるためになら別のリスク(甲状腺がんなら患者負担、コロナなら病床や保健所の逼迫)が見えなくなる、という、ある種のパニックは、今回も繰り返されています。
環境への負荷がとまらず、ひどい自然災害の頻度が高まっています。新興・再興感染症もこれまで以上に頻繁になるかもしれない。そもそも今回のコロナも、ワクチン接種が十分に広がり、「免疫の壁」ができるまでにまた、第4波、第5波がきそうです。こうした危難に向き合うために、私たちが学び、いかせるのは、こうした隣り合わせの不安をコントロールしながら生きる心の持ち方かもしれないなと、改めて思わされました。
政府は、緊急事態宣言の解除でまた、難しい判断が迫られています。原発問題に関して細野さんが示しているように、今のこの瞬間だけでなく、この後の10年も、このコロナの災厄とつきあってくれ、また、短期的には泥をかぶることになっても、将来像を示すために汗をかいてくれる政治家が登場することを願うばかりであります。 (了)