どう考えてもありえない、平成3年9月12日に加賀市大聖寺から宇都宮に行ったという運行記録
証拠資料
業務日報
業務日報に綴ったタコメーター
領収書
タコメーターの再撮影
問題点と疑問点
業務日報にタコメーターがついた最初の運行
業務日報にタコメーターがついた運行は4つだけで、この9月12日に大聖寺から宇都宮に行った運行、次が、9月17日に松任から兵器を積んで群馬県吉井町に行った運行(これはタコメーターが3枚のみ)、次が、9月25日に松任から群馬という運行、次が、10月1日に金沢から馬鈴薯を積んで大阪に行った運行になっています。
タコメーターについては、昭和59年の金沢市場輸送の4トン保冷車のときはなかったと思いますが、昭和60年12月からの中西運輸商の4トン車乗務では4トン車にもタコメーターがついていました。
大型トラックの場合はタコメーターの装着が義務づけられ、整備不良と同じような反則金があるような話を聞いていました。実際に警察官にタコメーターの装着を調べられたことはなかったと思いますが、当然のように装着していたと思います。
金沢市場輸送では決まって業務日報にタコメーターをつけていた記憶が残りますが、市場急配センターの方は金沢市場輸送に比較して仕事内容が単純で、業務日報についてもルーズさがあったような気がします。
市場急配センターの方は、どこで業務日報を作成していたのかも思い出せないですが、運行を終えて会社に戻ったときに作成するもので、会社以外で作成することはなかったはずです。
中西運輸商のときは、一日中ほとんど止まらずに走り続けた証明として、タコメーターを見せて自慢をするような運転手もいたのですが、金沢市場輸送でもタコメーターが話題になることはなく、問題にされたこともなかったので、ごく普通に業務日報と一緒に会社に提出していました。
10月10日の運行まで乗務した2313号
1つだけ例外があって、9月15日に金沢から福井に木枠を運んだという運行が2315号になっていますが、これは事実ではないと思います。そもそも記憶にない仕事なのですが、今となってはやっていない仕事と断定することも困難です。
長距離ではなくローカルの仕事になるかと思いますが、金沢から福井に荷物を運んだ仕事で、とても強く印象に残っているものが1つあります。たぶん福井駅の近くで商業ビルが並ぶ賑やかな場所でした。
その商業ビルの1つに大型車で荷物を運び入れたのですが、天井が高く吹き抜けのようになっていました。金沢の香林坊の大和デパートほどではなかったですが、いくらかそれに近い感じの店内でした。
これは金沢市場輸送にいる頃にやった仕事で、平成3年1月17日から乗務した大型ウィング車ではなく、その前に乗務していた大型保冷車の可能性もあると考えています。なお、このときに新車で乗務した大型ウィング車が2315号になります。
私が金沢市場輸送から市場急配センターに移った後、2315号に誰が乗務したのか聞いた記憶は残っておらず、見かけることもなかったように思います。
金沢市場輸送の大型保冷車と同じカラーでしたが、荷台の箱の前から3分の1あたりから、前方の上に向けて、斜めに太いラインがあり、2色の3本線で真ん中が赤のラインだったような記憶です。
今となっては記憶がぼんやりしてはっきりと思い出せないですが、かなり目立つデザインとなっていました。
実際に3本線だったのか記憶があやしくなってきましたが、太いラインが斜めに入っていたことは間違いないと思います。
考えてみると2313号の方は、その斜めのラインがなかったと思えるのですが、2315号は日野自動車で、2313号は三菱ふそうという違いもありました。
自分がずっと2313号に乗務していたという感覚は乏しいのですが、その後、2313号には被告発人安田敏が乗務しました。被告発人安田敏が乗務してどれぐらいの間があったのか思い出せないですが、市場急配センターのカラーに塗り替えています。
過去の書面には詳しく書いてあるはずですが、川上板金に被告発人安田敏の同行をしました。
私は10月12日に、新車で入った3068号に乗務しています。日野自動車の大型ウィング車です。イワシの運搬の大型平ボディ車は新車で5台まとめて導入され、そのうち2台しか乗務する運転手がいないということもあったので、別のトラックに乗り換えることもあったのですが、金沢市場輸送も市場急配センターも運転手の乗務するトラックが決まっていました。これは他の運送会社でもほとんどおなじ同じだったと思います。
タコメーターの裏面への謎の書き込み
タコメーターの裏面への書き込みは他に確認していませんが、ボールペンかあるいは鉛筆で、「H.9.20.15日書入れ 9月12日〜14日」と読めます。
もう一度見直したところ、Hではなく7に見えてきました。最初平成9年に私が書き入れたのかと思ったのですが、20月15日というのはあり得ない日付です。
平成9年当時の自分の筆跡のようにも思えていたのですが、何のために書き込んだのかさっぱり理解できずにいました。一部の業務日報にだけタコメーターがついていることは、ずっと前から認識にありましたが、特に意識することはなかったと思います。
それと写真を見ながら4カ所にホッチキスの穴のあとがあることに気がつきました。1つ目か2つ目か忘れてしまったのですが、1つのタコメーターだけホッチキスの針がついていて、それも通常の針より太く丈夫そうでした。折り曲げて外しています。この前、撮影するときのことです。
それらしいホッチキスの針を見つけたのですが、数日前には判決謄本のホッチキスも外していました。ただ、それよりは下の爪の部分が短いようにも思えました。
平成3年のホッチキスの針だと全くさびていないのも不思議ですが、それはタコメーターから外すときにも感じていました。
ホッチキスの針を撮影しました。思ったより下の爪の部分が長く見えます。先日の判決謄本のホッチキスを外すときは、細いドライバーのような道具を使いました。失敗したiphone7の電池交換の時、セットの中の道具として使ったものです。
このタコメーターのときは、道具が見つからず、指の先で押し曲げて外ししました。それらしい針の曲がり具合にもなっているかと思います。
なぜ1つのタコメーターだけホッチキスがついていたのか、それも気になるところです。
先日作成したExcelで運行表の一部です。矩形選択のスクリーンショットの画像にしましたが、8月31日から10月6日迄の運行状況が確認出来ます。
10月12日に新車の3068号に乗務してからが、いちおう長距離トラック運転手らしい仕事になっていましたが、それまでは長距離は単発で、市内配達の仕事をすることもあったように思います。
コースの配達というのはなかったですが、青果の仲買の依頼で臨時で出たような市内配達でした。
金沢市場輸送では保冷車の長距離運転手の間で、月に九州2回、東北6回、東京2回の運行が基本と言われていました。冬場のみかんの時期だと九州に6回行くこともありましたが、いずれにせよ市場急配センターとは仕事内容にかけ離れた違いがありました。
市場急配センターでは、これで大型長距離運転手の給料が固定の50万円となっていました。手取りでは40万円以上もらったことがなかったですが、8月に離婚していて引かれる税金が高くなっていたというのはあると思います。
金沢市場輸送の基本給と歩合の組み合わせの給料明細の方が、まったく理解できないほどややこしかったのですが、50万円以上の総支給額は見たことがなかったものの手取りで43万円ということはありました。
H9で平成9年ではないとすると、7月9日20時15分書入れ、の可能性が高まるのですが、10月の運行なので、翌年の平成5年以降になりそうです。
この業務日報は警察に提出され、返却されたものとも思えてきた
まるで、ここ掘れワンワン、とばかりに、あざとく強調されているようにも思えていた9月12日に大聖寺から宇都宮の運行になります。
1つはっきりしていることは、3月24日の運行あるいはその次の運行で、同じく大聖寺から宇都宮に荷物を運んでいることです。実は、この1回しか記憶にない運行なのですが、市場急配センターのこの業務日報では、2月24日に、加賀から宇都宮となっている運行があります。
この2月24日の運行については別に取り上げる予定です。
8月31日土曜日の積みおきで、9月1日の出発になりますが、被告発人安田敏と東京に行った運行、次が、9月5日に松任から福島県白河市に行った運行、次が、9月9日に東京へ馬鈴薯の運行になり、4つ目、単独では3つ目の運行が、この大聖寺から宇都宮の運行になります。
松任から福島県白河市となっている運行にも疑問点があるのですが、これも別に取り上げる予定です。
2,3日前に別のものを探していて見つけていた資料を確認したのですが、9月の前半というのは、運行の記録がほとんどありませんでした。
被告発人安田敏と東京に行った運行と、前日に東京からバナナを摘んできたという運行ですが、この朝にバナナを荷下ろしした日が、被害者安藤文さんのフィルム貼りの手伝いの日でした。
もう一つ大きく思える発見があったのですが、これも別に取り上げておきたいと思います。金沢南郵便局のことです。長い間、思い違いをしていたらしいことに気がつきました。
9月11日の水曜日の可能性が高まった被害者安藤文さんのフィルム貼りの手伝い
全体的に疑問点の多い市場急配センターの業務日報ですが、これまでになかった視点から1つ日付の特定が出来たかもしれません。
被害者安藤文さんのフィルム貼りの手伝いですが、これまで長い間、9月18日の水曜日の可能性が高いと考え、書面にそのように記述してきたように思います。
その日が水曜日だったことははっきりしており、暦の上での平成3年9月の水曜日というのも特定されています。月の中頃というイメージが強かったのですが、普通はそうなりそうです。
他県は違うのかもしれませんが、ずっと前から理髪店は第一と第三の日曜日が休みと決まっていました。これも半月の間の中間を目安にしていると思われます。
水曜日の休みというのは、金沢中央卸売市場の話で、そのときに初めて知ったのですが、日曜日の他に、月に1回水曜日が休みになったということでした。これが平成3年9月になります。
平成3年9月は水曜日が4つありますが、水曜日に東京からのバナナを荷下ろししたことになっているのは11日だけです。
被害者安藤文さんのフィルム貼りの手伝いの翌日になっている大聖寺から宇都宮の運行
この被害者安藤文さんのフィルム貼りの手伝いについても情報をまとめておきたいのですが、繰り返しの既述が多く、重要な事実関係でありながら、新規作成の優先度は下げています。
事実とは思えない9月12日の大聖寺から宇都宮の運行ですが、被害者安藤文さんのフィルム貼りの翌日にされているのが気になるところで、タコメーターの件を含め、作為的な痕跡をいくつか感じています。
強く特別な思い出があった加賀市大聖寺の大同工業
今考えると、昭和の時代に存在した被告発人大網健二兄弟の住宅を兼ねた建物の大網自動車工場。今考えると、看板が大網自動車なのか大網自動車工場だったのかよくわからなくなって来たのですが、やはり大網自動車工場だったように思います。
今考えると、建物というか建造物のかたちが似ていて、それをそのまま巨大化させたように見えたのが加賀市大聖寺の大同工業になります。
最近、Googleマップでいくらか似たようなかたちの建物を見かけて、妙に気になっていたことを思い出したのですが、大同工業と結びつけて考えることはありませんでした。
前は建物の名前まで調べていなかったのですが、石川丸果の建物というのは意外です。石川丸果の関連の倉庫は、市場急配センターの裏側にいくつかありました。青果の売り場から近いというのも理由と思われますが、売り場から道路を横切ってフォークリフトで荷物を運ぶ姿もたまに見かけていたような記憶です。
スクリーンショットを作成しましたが、駐車場に市場急配センターのトラックが見えます。乗用車と比較して大きなトラックに見えましたが、タイヤの数とタイヤの大きさで4トン車に見えます。
平成4年当時は普通免許が4トンまで、それ以上が大型免許と決まっていたのですが、今は中型免許とか違いがあるようです。
平成4年当時は数が少なくなっていましたが、保冷車では6トン車もありました。タイヤの数は4トン車と同じでしたが、かなり大きなタイヤでした。
当時は運転席のガラスの上にある速度表示灯で4トン車と大型車の区別が出来たのですが、なぜかこの速度表示灯はなくなったようです。ランプが3つ並んでいて、スピードで点灯する数が違っていました。
役に立ったのは冬場に路面凍結の多い東北で、対向車の大型トラックの速度表示灯の点灯が1つだけだと、この先、要注意でした。30キロかそれよりだったと思いますが、ブラックアイスバーンの危険がありました。
Googleマップでは、今回も金沢中央卸売市場前の交番の建物がありますが、ストリートビューに切り替えると消える建物で、存在しなくなっています。
Googleマップでは、「丸果石川中央青果倉庫」となっていますが、石川丸果という看板しか記憶になく、石川中央青果というのは、存在した石川中央魚市と似ているものの、見かけた記憶がない気がします。
大同工業の建物とは、建物の高さがずいぶんと違っていて、場所をとるのに、なぜこのような天井の低い倉庫になっているのか不思議に思えるほどです。
逆にその建物の高さが異様で不思議に思えたのが、大同工業になります。まるで大型船を建造する造船所のようでした。
大同工業と協共運送については、朝にまとめ記事を作成しています。実際、協共運送だったのか、それとも協共運輸だったか、これもわからなくなっています。
どちらにしておくか迷うぐらいにわからないのですが、協共運輸の可能性が若干高い気がしますので、この表記で一本化します。
まとめて記事には、2月の福岡の運行の帰り荷のこと、藤田さんと佐川急便の九州便の話の記載があることを確認しましたが、期待よりは簡素な内容でした。
そもそも記憶にない協共運輸が荷主の運行
2月24日の大聖寺から宇都宮の運行ですが、領収書の日付が2月になっていることを確認しました。時刻は20時36分と思われる記載ですが、平成4年4月25日で、国道50号線足利給油所です。
栃木で石灰を積んだとすれば、遅い時間で仮眠をとっていたことになります。石灰を積んだ後の仮眠と、富山県の小杉インターの領収書が8400円となっているのがポイントですが、関越自動車道と長岡ジャンクションから金沢側の北陸自動車道の料金表が見当たりませんでした。
関越自動車道の通行止めを確認したかったのですが、別の発見がありました。2月24日の前橋インターの5800円という領収書が長岡インターからの区間料金となっていました。ありえないと思うのですが、これも別に取り上げておきたいと思います。
料金表から関越自動車道の参考になりそうなデータを探したのですが、六日町から親不知が6050円となっていました。親不知から小杉が3000円です。
合計だと9050円になりますが、高速道路を降りて乗り直すと料金が割高になるとは聞いていたので、8400円が六日町と小杉の間に近い気がします。実際は越後川口インターだったような気がするのですが、関越自動車道の料金表にありませんでした。
これは関越自動車道の通行止めに遭遇したときの話です。群馬県側の関越トンネルの手前のインターからの通行止めでしたが、少なくとも湯沢インターの先のインターから関越自動車道に乗り直したのは翌日の午後になっていました。それでも午後4時頃には目的地の七尾市に着いていたと記憶にあります。
栃木の石灰ですが、業務日報に栃木と記載されているのでそうしておきました。実際は葛生町ですが、過去の手書きの記述をみたときか、葛生町とは別に鍋田とあったように思います。
鍋田ではなく鍋山町でした。Googleマップで葛生町の周辺を探したのですが、すぐには見つかりませんでした。
平成4年2月中に北陸ハイミールで見たと記憶にある協共運輸の大型車
たぶんウィング車で新車のように見えました。ずいぶん雰囲気が明るくなって、誰かと笑顔で話す姿も見かけていたのですが、昭和59年に金沢市場輸送にいて4トン保冷車で免許取り消し中だった運転手に間違いないと思いました。向こうが避けていたのか、目を合わせることはなかったですが、それが私と気がついている様子にも見えました。
そのときに輪島屋鮮冷の大型保冷車2台も、同じくミールを積込みに来ていたと記憶になるのですが、しばらく前に私が運んだ福岡行きのミールと聞きました。なお、私の場合は、同じ北陸ハイミールのミールですが、倉庫移動先の水島倉庫からの積込みでした。
運転手の間での協共運輸の話題
津幡町にある運送会社とは聞いていましたが、金沢市場輸送で配車係をしていた藤田さんの転職先と聞いたのが初めてだったように思います。
平成2年のことになりますが、6月中でたぶん6月の終わり頃と思われる片山津温泉ホテルながやま、での慰安会には藤田さんの姿があったとはっきり記憶にあるので、7月に入ってからの転職になりそうです。
藤田さんが金沢市場輸送を辞めたと聞いたのとほぼ同時の転職だったと思います。その前には本恒夫社長に対する不満などいろいろと聞いていたので、かなり意外に思える協共運輸という転職先で、いつも一緒にいた同じ配車係のYTとは転職先が違っていたのも意外でした。
平成3年の7月中だったと思いますが、夕方の早い時間に多くの運転手が市場急配センターの事務所の前に集まり、雑談をしていました。その時にも藤田さんや協共運輸の話が出たように思うのですが、これははっきりしない記憶です。
記憶がはっきりしているのは、北都運輸が倒産したという話でした。当日になるのか数日前になるのか記憶がはっきりしませんが、その倒産のニュースは自宅アパートで購読していた新聞で見たように思います。図書館の北國新聞縮小版で記事を探したこともあるのですが、索引からは見つかりませんでした。
今考えると新聞ではなく、テレビの県内ニュースで見ていたような気もします。それまで全国的に支店をもつ運送会社を別に、石川県内では一番大きいとか、運転手の数、あるいはトラックの数が一番多いと聞いていた北都運輸の倒産でした。
運送業とは別に始めた事業での失敗で倒産したと、そのときに集まった雑談で聞いた記憶ともなっています。